東海の鬼といわれて(後編)

「東海の鬼-花村元司九段棋魂永遠記-」より、将棋ジャーナル1983年1月号、湯川博士さんの「東海の鬼といわれて」より。

蛮勇と粘着

 花村九段は、自分の将棋を、「蛮勇と闘志」だと認識している。つまり将棋とは「最短距離で勝つもの」であり、「相手をいかにぶっ壊すか」にあると・・・。そして、升田、内藤、米長、大内、森なんかがこの系統だという。

 この反対が大山将棋だろう。

「大山さんは、相手を十分に消耗させておいてから確実に殺しにかかる。そして驚異的な粘りで負け将棋を拾うんですヨ」

 花村はその大山に、名人戦(昭和31年度)の挑戦者としてぶつかったことがある。

「あの時はA級で私が優勝し、2位の升田さんと同率決戦をやった(ともに8勝2敗)。結果は2-1の勝ちで、名人戦挑戦者。アタシはもうこれで喜んじゃって、浮き浮きして、名人戦のことまで気が入っていなかったんだなあ。対局前にすでに大山さんに負けていたよ。棋魂がアタシよりはるかに上だった。対局前も後も、大山さんの方がずっと精神が勝っていたし、一手一手の魂の入れ方が段違いだった。残念だけど、私より一段上でしたネ」

 同じA級でもん、名人になる人と、A級の上位と、下位とはずい分違う。「名人は棋魂があって蛮勇があって、その上に粘着力がなくてはいけない」

 大山、中原にはそれがある。若手の谷川浩司は、本格正統派でいて蛮勇があるから強い。そして弟子の森下卓三段(現四段)には、もっと上手の香落ちを勉強して、下手に対して図々しくなれ、と忠告する。

 しかし八段九段で下へ落ちてきている人も、アマとは違うのは、『棋魂』で指している所だと強調する。老化しても一手一手魂の入った手を指すことができるのがプロである。

「だから、アマでもトップクラスの人は、『棋魂』で指しているわけだ。見ればわかる。そういう人はどんなに悪くなっても最後に勝つ」

 アマ将棋連盟について-。

「八ヶ岳の将棋祭で私と芹沢さんがアマと平手で指した。今度は全日本オープンをやるという。こういう新しい企画は面白い。それからこの間の森君の三番勝負。あれは企画自体はとてもよかった。でも、扱い方がちょっと問題だとプロの人は不満に思った。とにかく、アマ連盟は、将棋連盟ではやらない新しい面をやるべきだね。アマチュアのためになるような、そしてお客の喜ぶことを、一歩先に行くことでしょうね。八ヶ岳の大会も、上のクラスばかり厚くならないように、下の方にも目を配ってやるということが必要なんだろうと思うネ」

 『東海の鬼』といわれてから50年近い年月が流れた。秀才少年から真剣師、バクチ打ち、プロ棋士と、境遇は変わっても花村流の行き方は変わらない。過去の積み重ねを生かし、未来へ目を向ける。柔軟な人生の達人である。

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花村青年が徴兵されて向かった先は南支。

この一帯はマラリアが多く発生することで有名で、花村青年も4回も罹ってしまう。

この時の高熱のために、頭髪がなくなったと言われている。

昭和16年に帰国、名古屋へ戻って真剣師生活に戻る。

昭和18年に升田幸三六段と真剣勝負を行い、一晩で15勝15敗(三香角の四番一組、9局目から香落ち)。

昭和19年にプロ五段試験に合格。木村義雄名人門下となる。