林葉直子「私の愛する棋士達 第2回 内藤國雄九段の巻」

将棋マガジン1991年2月号、林葉直子女流王将(当時)の「私の愛する棋士達 第2回 内藤國雄九段の巻」より。

「男が男に惚れるっていうのも変だが、応援してるって言っといてくれ」

 内藤國雄―。名前を訊く度にこのセリフを想い出す。

 三ヶ月ほど前になるか、新宿で食事を済ませた私がタクシーにひとりで乗ったときのことだ。

「千駄ヶ谷の鳩森神社まで」

 と私は運転手さんに行き先を告げた。

 翌日の対局に備えて将棋連盟に宿をとっていたのである。

「千駄ヶ谷?」

 後部座席に座った私に確認するように振り返った運転手さん。

 私はドキッとした。

 年は五十前後だろうか。声にはドスがきいており、頭はパンチパーマ……。肌の色は少し青白く、まるでヤクザ屋さんのような感じだったからである。

 走り出したタクシーは、新宿のネオンを後にして千駄ヶ谷に向かって行く。

 窓越しに、ボーッと新宿の街を見つめるフリをしながらも、内心私はドキドキ。この運転手さん怖い!

 まったく知らない場所に連れていかれでもしたら、どうしようかと心配し、イザというときの手段まで考え始めた。

 信号待ちの度にバックミラー超しに私の顔を見るのだ。

 一度ではない。

 何度も……。

 しかも、運転手さんは鼻唄を……。

 フフン、フーンフフン。

 よっぽど楽しいことがない限り鼻歌なんて、唄わないはず。

 何か、企んでいるのだろう。

 いっこうに鼻唄をやめようとしない。

 どうしよう……

 私の不安は高まるばかりだった。

 しかし、これは単に私の考え過ぎでまったく違ったのである。

 車が新宿御苑付近の信号で停車したとき、運転手さんがクルッと私のほうに振り向き、

「お客さん、どっかで見たことあるねェ」

 と言うではないか。

 ん?

 新宿のネオンのせいだったのか、さっきの怖いイメージがない。

 渋く響くような低音だが、笑顔で私に訊く運転手さん。

「ハハッ、そうですか」

 私は自分の被害妄想的考え方に少し反省しながら、そう答えた。

「いやねぇ、アンタに似た将棋を指す女性がいるもんでネ、その人かと思ったんでね、鼻唄で唄ったんだよね、今のメロディわかんないだろ」

 そう言い終えるや、運転手さんは前を向きハンドルを握った。

 なーんだ。

 私の顔を何度も見ていたのは、どこかで見たことがあるということで気になったんだ…。

 しかし、メロディ?とは一体なんだ? そっか、女流王将と思って、『王将』の節をとっていたのか。

 ははぁん、読めた。

 この運転手さん、将棋ファンの人なんだ。

 私はホッとし、さっきまでの心境とは一変して、なんだか嬉しくなり、

「あ、運転手さん、今のメロディってアレでしょ、阪田三吉の王将!!」

 バックミラーに映る運転手さんの目を見ながら、私はそう問いかけた。

 将棋の唄といえば『王将』か『歩』ぐらいだ。

 私のこのときの読みは、『王将』が間違いであれば『歩』と言えばよいと思っていたのである。

 せっかく、鼻唄を運転手さんが唄ってくれていたのに、怖くて聴いてなかったなんて失礼だし、この考えは間違いないと踏んだのだ。

 が、この読みは見当違いで、私は運転手さんを怒らせてしまったのである。

 アクスルを踏みながら苛立たし気に運転手さんは響く声でこう言った。

「アンタねぇ、将棋の女の子かと思ってたけど、違ったんだね。

サラリーマンぐらいならよく知ってるさ、今の俺の鼻唄は、内藤國雄っていう将棋指しの人が唄った『おゆき』っていうんだよ。カラオケ屋行けばあるだろうが、将棋の九段なんだけど、歌もうまいんだ。俺はネ、内藤さんって人が好きなんだよ。いい加減にしてくれよな。

最近の女の子は、まったくなんにも解かっちゃいない!」

 あちゃー、聴いてもいなかった鼻唄を『王将』だろうなんて勝手に考えるんじゃなかった。

 女流棋士の林葉直子なら、その鼻唄にすぐ反応し、

「それは将棋の内藤先生が唄っている『おゆき』でしょ」

 というと思ったのだろう。

 内藤ファンに失礼なことを言ったと、私は謝った。

「すみません。考え事してたもので、あんまり聴いてなかったんです……。内藤先生の『おゆき』のレコードなら、私も小さいとき買ったんですよ」

「……」

 私がいい加減に言っているのだと思ったのか、何の返事もなく、運転手さんはただ無言で車を千駄ヶ谷方向に走らせる。

 しかし、私はめげずに私も内藤ファンだということを言った。

「内藤先生って、運転手さんの言うとおり、スゴイ先生ですよ。

 将棋も一流、やさしくて、気さくで、めんどうみがよくってスマートで格好いいんです。世間に将棋指しは、魅力的なんだゾってアピールしたのが、内藤先生でしょ!」

 興奮気味にしゃべる私を見て納得したのか、声のトーンもやさし気い運転手さんは、

「ふーん、アンタよく解ってるじゃない。将棋やりながら、歌をやってるってことでネ、めずらしい奴が出てきたと思ってたんだよ。俺はヘボ将棋で歌もへたくそ。それにひきかえ、あの人かっこいいよなぁ……。俺は内藤さんのような人が将棋指しの中にいないとつまらないと思うよ。あぁいう、いい男っていうのはなかなかいないよ。俺だって、あぁいう男に生まれたいと、テレビ見たとき思ったんだ」

 と熱くしゃべりだした。

「そうでしょ!写真もいいけど実物はもっといいんですよね、超一流なんだけど、私たちに気さくに話しかけて下さるんですよ。それにね、この間だって時間が空いてるからって、女流プロに平手で教えておげたんですょ」

 私も負けじとハリキッて言ったのだが、このとき女流プロだということを自分で明かしてしまう。

 ちょうど、そのとき車も千駄ヶ谷の将棋会館の側まできた。

「そこの将棋会館って看板のあるところで止めて下さい」

 私の声に、支払いのメーターをカシャッと上げ、

「やっぱり、アンタ将棋やる人だったのかい。どおりでねぇ、内藤さんのことに詳しいと思った。悪かったねぇ。なんにも解っちゃいない!なて言ってさ」と―。

 お釣りを用意しながら、運転手さんは、何度も将棋れ名の看板を見ていた。

 そしてドアを開けると同時に、

「内藤さんに会ったら、言っといてくれる。俺は内藤さんに惚れてるって」

 これが、冒頭のセリフに続く。

 タクシーに乗っていた時間は10分足らずだったと思うが、運転手さんのメッセージを内藤先生に伝えることを約束して私は車から降りた。

 普段だったらタクシーを見送ることなどない私だが、この日だけは違った―。

 この話、なかなか内藤先生とご一緒させていただく時間がなく、伝えることができなかったのだが、今それがやっと実現した。

 私はこの夜、ベッドに潜りながらこの運転手さんのことを思い、笑った。

 きっと将棋を指せそうなお客さんが乗ったら、いつも『おゆき』の鼻唄を唄っているのではないか、と。

 将棋のプロの中で、メロディで名前を解ってもらえるのは、世界中でたったひとり内藤國雄九段しかいない。

 私もつい、この原稿を書きながら口ずさんでしまった。

 運転手さんも惚れている。私も惚れている。万人から愛される内藤先生、将棋も歌を大ヒットさせ活躍してほしい。

 内藤ファンの皆様へ。 

『おゆき』から15年ぶりに新曲が。CBSソニーレコードから『ああ、雪列車』というのが発売されたそう。

 軽いポップス調演歌でわりと覚えやすそうな歌。

 のびのある歌声の内藤節を聴きながら、将棋を指せばイイ手が浮かぶかもしれませんよ。

        

直子の内藤國雄分析

〔特徴〕

 兵庫県(中略)駅で、タクシーに内藤國雄さんの家までといえば、それで内藤家まで連れて行ってくれるそうだ。(スゴーイ)

〔口グセ〕

「神吉には参るよ~~」と変な口グセがある。

〔趣味〕

 ゴルフが大好き。

 森安九段らとお酒を呑みに行くのがくつろぎの時間だそう。

〔生活〕

 一見きつそうに見えるが、ものすごくやさしいお方。

 家に犬、猫、鳥を飼っておられる。

 動物をこよなく愛するというだけでお人柄が解ってしまう。

(以下略)

DREAM PRICE 1000 内藤国雄 おゆき
価格:¥ 1,050(税込)
発売日:2001-10-11

(視聴ができます)

—–

倉本聰さんのエッセイのような、倉本聰さん脚本のドラマになりそうな、タクシーの中の人間模様。

タクシーの運転手さん役は、室田日出男

林葉さん役は、、、やはり林葉直子さん。

—–

昭和の末期の土曜日の話。

将棋を指したいけれどもひどい二日酔いだった私は、将棋会館道場までタクシーで向かった。

「千駄ヶ谷の鳩森神社の辺りまでお願いします」

乗っていたのは20分くらいだったろうか。

二日酔いで苦しかったので、一言も喋らずに窓の外を眺めていた。

料金を支払う時、運転手さんが初めて口を開いた。

「お客さん、もしかして、プロの将棋の先生ですか?」

私は慌てて否定したが、何か気分は悪くなかった。

—–

タクシーに一人で乗って、「千駄ヶ谷の鳩森神社までお願いします」と言う。

そして車内では、何も喋らない。

将棋会館の前で下りる時に、運転手さんに何と言われるか、を試してみるというのも面白い実験だと思う。

これは男性はもちろんのこと、女性にもお薦めできる。