升田幸三実力制第四代名人「木村、生きとれ」

将棋世界1991年6月号、「さらば、升田幸三 ―傑作語録集」より。

近代将棋1991年6月号表紙より。

「名人に香車を引いて勝つまで帰らん」

 昭和7年13歳の時、母親が毎日使っている物差しの裏に書き置きを残して家出する。ただ将棋界の情報に詳しくなかったため本当は、「この幸三、名人に香車を引いて勝ったら大阪に行く」と少々意味不明の言葉を書いている。

「落ちるのがいいんや」

 駒台から駒が落ちやすい、というので三方にカキを作ろうと提案した人に対して阪田三吉師の話「勝負というのはいつすべり落ちるかわからん。すべり落ちるところにええところがあるんや。落ちない将棋なんて将棋やない」。これがよほど気に入ったらしく色々な所で升田も語っている。

「木村、生きとれ」

 第2次世界大戦時応召を受け南方ポナペ島に行き、連日激しい爆撃を浴びる。その中にも打倒木村の念はつのり、ある夜歩哨に立ち、月を見て「木村、生きとれ」と心に叫んだ。「月が連絡してくれるなら通信将棋で木村名人と戦ってみたい」と思ったともいう。

「錯覚いけないよく見るよろし」

 昭和23年3月3日。塚田名人への挑戦権を弟弟子の大山七段と争った”高野山の決戦”の第3局。必勝の局面で終盤に受けを誤り、トン死をした時の言葉。おどけがまた悲しい。

「将棋は日本の精神」

 終戦後GHQに呼ばれ、チェスとの比較での言葉。「チェスでは王様が助かるために女王をタテにする。女を犠牲にして王様は逃げ出す。日本ではそんな民主主義は通じない。日本将棋では最初から女は戦場にはつれてゆかぬ。また敵の駒を取った時、銀なら銀で格下げせずに使う。これが日本の精神だ」。GHQの係員が困ったという。

「攻めは責めだ」

 ”攻めの升田”といわれた。ただ前に進むだけが攻めではない。

「山より大きなイノシシはいない」

 何ものにも怖れる必要はない、と続く。

「どっちが勝つか、青酸カリをそばに置いて負けた方が飲むことにして勝負をしようじゃないか」

 塚田正夫九段との会話。当時の升田は、常にこの激しさで対局に向かっていた。

「名人なんてゴミみたいなもんだ」

 打倒木村に燃える升田は盤外でもことごとく突っかかった。昭和24年6月8日金沢市「つば甚」で。全日本選手権で対局。総手数210手。打ち上げの席上で、前日豆腐は絹ごしがいいか木綿ごしがいいかの論争がむしかえされ、「名人なんてゴミみたいなもんだ」と放言。木村名人も色をなし、「名人がゴミなら君はなんだ」とやり返し、こたえた升田八段は「ゴミにたかるハエみたいなもんだ」といった。

「ゴマシオ論争」

木村「大山君には悪いが、今度は君に来てもらってよかった」

升田「おとなしい女房の味にあきてキャンキャン芸者もたまにはいいというわけですか。とにかく枯淡の味の出てきた名人に挑戦できてくれしいです」

木村「君はそういうが、枯淡な味が出たらおしまいじゃないか」

升田「ゴマシオ頭にいつまでも名人でいてもらっては困るというのが本音です」

木村「ゴマシオ頭でも負けたくないからな。とにかく風邪を治しなさい」

 昭和26年、名人戦への挑戦権を得て直前のラジオ対談で。なおこの時は升田2勝4敗で惜敗。

「強がりが雪に轉んで廻り見る」

 昭和26年、木村名人との第1期王将戦で升田は4勝1敗と圧倒し、王将を取ると同時に念願の名人を香落ちに指し込むことに成功した。その香落ち番は「陣屋」で行われることになっていたが、前日升田が行ったところベルに故障があったか玄関に誰も出て来ない。升田は腹を立て隣の旅館で酒を飲み対局拒否を告げた。陣屋事件である。時の理事会は升田に1年間出場停止を通告、大もめにもめた。この後、木村名人の裁定で処分取り消しが決まった。騒動が一段落した後、升田は友人と陣屋に出かけたが、その場で書を求められ、即興の句を作った。なお半香に指し込まれたことが木村名人の棋士生命を縮めたか、この後第11期名人戦で大山九段に屈し、現役を退いた。

「たどり来て、未だ山麓」

 昭和32年、第16期名人戦で大山名人を破り、名人位に就く。”世間は名人だのなんだのと騒ぐけれども、自分では騒いでくれる名人らしい心境などではなかった。名人らしい感想みたいなことを求められるけれどもそんな容易なものではなかった。実際に道をきわめるなどというのは容易なものではない。道は果てしない”

「きみはタケゾウだ」

 吉川英治氏が升田に言った言葉。”どうして先生はこんなに僕たち未熟なものを親身になってヒイキされるのか、といったら、完成されたものには魅力がない、とおっしゃった。焼き物でも粗削り的にできているものがいい、きみはそれなんだ、そういう意味での魅力なんだ、といわれた” 升田はこの後、宮本武蔵の研究を続け、一家言を持つようになる。

「動くと働く」

 動く、は動物的、働くには人意がある。この人意が大切なのだ。香車の使命は静止にある。それがもくもくと動いて上にあがっては働きがなくなる。

「定跡は不定」

 定跡をまる覚えにして、定跡によしと書いてあったが、やったら負けた、ということがある。定跡を過去のものとして見てはいけない。200年、300年前の定跡を鵜呑みにする姿はまちがいである。定跡の本を読んで弱くなったというのは過去をいっているからである。定跡とは不変のものではない。

「着眼大局、着手小局」

 升田の好きな言葉で、色紙にもよく書いた。”眼は大局にこらし、実行は己の足元から固めてゆく。これは将棋に限らず、人の世のすべてに共通する哲学だと思う”

「足りない、足りない」

 ”未熟なものほど、余分なものを欲しがる。そしてそれを持っているがゆえに負ける。僕はいつも足りない、足りないと思って仕事をしている”(対談の中で)

「平心好術、好妻好局」

 やはり好きな言葉。”僕のような短気者は欠点が多いからあえて平心と書く。なりたいという夢があるわけだ。妻の方はのろけでいい妻だという意味だが、なおこれ以上になればいいという欲もある”

「私は病気ではない」

 名人も2年で手放し、その後はしばしば病に倒れたが、「私は気がやんでいるわけではないから病気ではない、病体だ」と闘病時にも気弱になる事がなかった。

「六十で名人になる」

 随筆集「新手一生」より。”実際になれるかどうかはもちろんわからない。しかし40代の名人はありうるが、50代で天下をとることは将棋の世界では不可能だとされてきた。それをさらにのばして60代の名人になってみようというもので、升田的だと思っている。咲いては散り、咲いては散るかもしれないが、そのたびに根を深くおろせば、なれないことはないであろう”

「升田は升田に負けた」

 昭和38年、第22期名人戦に登場したが1勝4敗で敗退。”4年ぶりの名人戦をやってみて、相手に負かされたという感じがちっとも湧いてこないのはなぜだろう。自分で自分に負けた、自分で自分の王様を詰めてしまったという感じばかりが強い。首をさしのべている相手に、ヤッとうちおろした刀が、横にすえてある地蔵さんを切れば刃もボロボロにこぼれようというものである。自分の相手は自分以外にない。升田の敵は升田だけだと、毎日自分にいいきかせている”

「新手一生」

 升田は多くの新手、新構想を盤上で発表したが、常に新しいものへの挑戦からこの言葉を生んだ。”私は青年時代からつねに新しいものを創り出す努力をつづけてきた。大きな勝負でもしばしば新手を打ち出すということをしてきたが、「ここで一つ新手を出してやろう!」と思っても決していい発想が浮かぶものではない。つねづね考えていることが、その場になってばっとひらめくのである”

「肩書きはいらない」

 僕は本当は肩書きとか政府がくれる勲章みたいなものは欲しくもなんともないんだ。わかるだろう。僕は将棋指しだ。死んで、後世に遺るものは対局棋譜だけだ。しっかりまとめて下さい。(朝日新聞社が「升田幸三選集」を出版するにあたっての言葉。

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1日1つの言葉で23日分のブログ記事にしようかと一瞬思ったが、それでは日めくり名言カレンダーのようになってしまうので、一気に掲載。

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「この幸三、名人に香車を引いて勝ったら大阪に行く」

升田少年が家出をしたのは、母親に将棋指しになることを大反対されたため。

この頃の升田少年は各県に名人がいると勘違いしていて、広島の名人に香を引いたら、今度は大阪へ出ていく、という意味ではなかったかとも言われている。

お金も持たず家出したその晩、升田少年は広島の繁華街に出ていた大道詰将棋を解いて獲得した賞品をお金に換え、それでハヤシライスを食べている。この時のハヤシライスの美味しさは一生忘れられないと後に述べている。

しかし、ハヤシライスについては「だから今でも、それを思い出してときどき食います。詰将棋つめて食ったハヤシライスが恋しくてね。しかし、どんないいのを食っても、記憶のなかの、あのときのうまさにかなうものがない。ちょうど徳川家康が金山を視察した帰りに安倍川餅を、うまいうまいと食った、あれですよ。あれは空きっ腹だったからうまいんで、ふだんはそんなにとびきりうまいもんじゃない。それと同じです。人間、何がウマイとかマズイとかいうが、やはり心ですな」と著書『勝負』には書かれている。

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「木村、生きとれ」

ポナペ島は現在はポンペイ島と呼ばれている。

この地は、太平洋戦争の時に侵攻したわけではなく、第一次世界大戦の際に日本軍が無血占領し、1920年に国際連盟によって日本の委任統治が認められていた。

太平洋戦争では、西にあるトラック島にあった海軍の一大拠点の防備を担うのがポナペ島の部隊の主な役割だった。

ポナペ島には1944年3月からアメリカ軍による大規模な空襲が開始されたが、トラック島の基地が空襲で機能を失った6月以降は、アメリカ軍の攻撃目標がサイパン島、硫黄島などに移ったため、以前に比べ規模の小さい空襲はその後も毎晩続いたものの、アメリカ軍の上陸はなかった。

とはいえ、補給路が完全に絶たれたため、食糧事情は悪く、様々な苦労があったという。各部隊、畑に芋(甘藷)を植えるなどしたが、収穫は数ヵ月後。タピオカのすいとんなどが食事の主で、栄養失調になる人が続出した。カタツムリ、カエルなどを食べなければならないほどだった。

升田幸三実力制第四代名人が体を壊したのは、この時期に食べたトカゲが原因ではないかとも考えられている。

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「動く、は動物的、働くには人意がある」

これは、動くに人偏(にんべん)をつけると働くになる、ということ。

このようにコメントをつけていくと、たしかに23日分の日めくりカレンダーのようになりそうだ。

数年後、ネタがなくなるようなことがあった時に、この続きをやってみたいと思う。