将棋世界2003年10月号、高林譲司さんの「王位戦秘話」より。昨日からの続きを。
Sくんは飛行機が初めてだった。乗客は搭乗手続きをしたあと、荷物検査のゲートをくぐる。人間もバッグも金属探知機を通過しなければ飛行機に乗せてもらえない。初めてのSくんはそこでバッグを預けたものと思い込み、手ぶらで飛行機に乗ってしまったのだ。
今回は対局場までの行程が長く、千歳空港で昼食を取る段取りになっていた。百戦錬磨の大内九段はさすがに落ち着いており、サッポロラーメンをすすりながら、やおら昔話を始めた。
「俺たちが奨励会の頃は、盤駒の運搬はすべて記録係の役目だった。北海道対局では東北本線、青函連絡船と乗り継いで重い将棋盤を運んだものだよ」
「大変でしたね。当時は飛行機じゃなかったんですね」
「うん、それが当然の時代だった。ということでSくん、今回のことは君がすべて責任を持ちなさい」
羽田空港に問い合わせると、持ち主不明のまま、そのバッグはあった。次の便で千歳空港に運んでくれることも確認された。大内九段の言葉通り、Sくんはバッグを手にするまで、一人空港に残ることになった。
まずは一件落着、車に乗り換えて一路対局場へ。とはいえ先に触れたように、今回は夕張山地に分け入り、山また山をえんえんと走り続ける行程である。
そのうちに舗装道路がガレキの山道となり、しばらくガタガタ走ったところで「どうも道を間違えた」と運転手さん。日もそろそろ暮れようとしている。こちらは大事な対局者を預かる身。無事に着いてくれと祈るしかない。
同じ道をえんえんとバックギアで引き返して舗装道路を見つけ出し、ふたたび山道を走ったところで、突如、まさしく突如、山と山の間に未来都市かと見まがうようなガウディの建築物のような超高層ビルが数本、ニョキッと現れた。対局場の「アルファリゾート・トマム」であった。
夕食会を終え、関係者だけの二次会の酒を飲んでいる時、Sくんが到着した。もちろんバッグを手にさげていた。見知らぬ土地を、しかも夜の山中奥深く、心細かったことだろう。一同、大拍手でSくんを迎え「おなかがすいただろう、さあ、何でも好きなものを注文していいよ」。こうして長い一日が終わった。
翌朝、無事に対局は始まった。何階だったか忘れたが、対局室や記者室は高いところに設営され、緑いっぱいの素晴らしい景観だったことを憶えている。
封じ手となり、一日目終了。もう何事もない。対局はいつものように順調に進行している。この一両日、いろいろとあっただけに、その夜の酒はことさら美味だった。
とんでもない話だった。極めつけ事件が翌朝、キバをむいて我われを待ち受けていたのである。
大内九段が封じ手を開き、対局再開を宣した直後のこと。前触れも何もなく、全館がいきなり停電してしまったのである。外光だけでは薄暗く、対局続行は不可能。
ここでも大内立会人は落ち着き払っていた。即座に「記録係は時計を止めなさい。対局は中断とし、とにかく様子を見よう」。郷田王位、羽生挑戦者も動ずることなく立会人の裁定にうなずいた。
あわてふためいたのは記者たちで、ワープロは消え、ファックスは動かず、上へ下への大騒ぎ。実際にエレベータが止まってしまったので、高層ビルの階段を走って上がったり下がったりし、しまいには何のために階段を上り下りしているのか忘れてしまうほど、すっかり動転してしまっていた。記者が記事を送れないのは、棋士が公式戦の日を失念したような重大事なのである。
さいわい、ホテルの自家発電機がやがて作動し、対局再開。原稿の送信も可能になった。電力会社によれば、この地域は大自然のまっただ中で、長い送電線のどこに故障が起きたか、見つけるだけでもかなりの時間を要するのだという。すべてが復旧したのは、おそらく数時間後だったろう。電力会社からお詫びの電話が入ったのは、北海道らしい心温まる話ではあった。
その後は何事もなく、対局は無事に終了した。今となれば笑い話だが、これほどトラブルが連鎖反応のように起きた対局はあとにも先にもない。対局場は、やはり交通の便がいい都市部か有名温泉地が無難ということか。
(つづく)
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「アルファリゾート・トマム」は、現在では「星野リゾート トマム」となっている。
トマムは、千歳空港から車で約90分の距離。夕張と帯広の中間に位置する。
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将棋世界2003年10月号のこの記事には、1993年の王位戦第2局の写真が掲載されている。
写真を見てみると、観戦記者は鈴木宏彦さん、そして記録係は、背広を着て黒縁の眼鏡をかけている瀬川晶司三段(当時)。
Sくんとは奨励会時代の瀬川晶司五段(8月13日に昇段)のことだったのだ。
念の為に調べてみると、瀬川晶司五段も、2009年の名人戦(羽生善治名人-郷田真隆九段)の大盤解説会で、この時の失敗談を話していたようだ。
→瀬川晶司のシャララ日記 「告知2件」のコメント欄
羽田での失敗を、千歳~トマムで見事にリカバー。
大拍手で迎えられ、「おなかがすいただろう、さあ、何でも好きなものを注文していいよ」
テレビドラマのシーンのようだ。