王位戦秘話(1)

将棋世界2003年10月号、高林譲司さんの「王位戦秘話」より。

 王位戦を担当して18期目に入った。投書30代半ばだった記者も50歳をこえた。それを思えば長い年月が過ぎたものだと感慨がないわけではないが、一方で、あっという間の18年だったことも確かである。

 その間、タイトル戦は停滞することなく続き、順調に来たからこそ特筆するような大きな事件や事故もなく、ここまで隠さなければならなかったような”秘話”もない。

 しかし小事件や失敗談はけっこうあった。昨日のことのように細部まで憶えていることもあれば、すっかり忘れ去ったことも多い。憶えていることの中から、いくつか裏話を紹介してみたい。

(中略)

 1993年の第34期は郷田真隆王位の初防衛戦に対して羽生善治三冠王が挑戦するという、胸踊るようなシリーズとなった。

 岐阜県での開幕戦を羽生挑戦者が制したあと、7月22日、23日の第2局は北海道のトマムに舞台が移された―と、ここまではありきたりの観戦記風だが、内情は冷や汗の連続。先に事件も事故もなかったとは言ったものの、この一局に限って何かに取り憑かれたように小事件が相ついだ。

 そもそもトマムは、夕張山地の奥地をバブル景気にまかせてスキー場として開発したところで、夏はただただ山と原生林の大自然が広がるだけである。担当の北海道新聞社が、たまには珍しい場所でと選んだものだが、今思えば、このあたりからいつもと違う空気が漂い始めていたのかもしれない。

 まず出発の前日、将棋連盟から私の自宅に電話が入った。めったにないことで何か不吉な予感がする。正立会人は大内延介九段、副立会人は佐藤義則七段(現八段)と決まっていたが、予感は当たって佐藤立会人が急病で行けなくなったという連絡だった。

 さっそく佐藤さんのお宅に電話を入れると「持病の痛風が出て、歩けない」とのことである。「どうしても?」「どうしても」ということで、納得。こちらも人の痛みは分かるつもりである。

 というのは、実は私も一度、尿酸値が上がって痛風の苦痛を経験したことがある。歩けるかどうかどころの話ではなく、体を1ミリも動かせないほどの激痛が、まずは足の親指の付け根に来る。それが痛風であり、激痛はいつまでも続く。

 将棋界の痛風三羽ガラスは二上達也九段と、くしくも今回の両立会人。

(中略)

 それはさて、次の悩みは代わりの立会人であった。立会人は実績や段位が伴っていなければならず、誰でもいいという訳にはいかない。ふさわしい人は大抵スケジュールが詰まっている。

「滝誠一郎七段が行けることになりました」との連絡が将棋連盟から入った時は胸をなでおろした。

 翌朝の羽田空港には、郷田、羽生両対局者に、大内、滝の両立会人、記録係、観戦記者と北海道行きのメンバーが全員顔をそろえた。これで対局を迎えることができる。飛行機も時間通りに飛び立ち、時間通りに千歳空港へ着陸した。

 しかし事件は私の気づかぬところで静かに進行していた。記録係のSくんが何やら落ち着かぬ様子で、「羽田で預けたバッグが出て来ません」

 バッグには記録用具一式と将棋連盟の駒が一組入っているという。対局用の盤駒はすでに用意してあり、その駒は予備のものだったが、目が飛び出るほどの高価な駒であることは、間違いない。

 羽田でバッグを預けたのなら、半券としてのチケットがあるはず。チケットさえあれば、悪意ある人間に取られていない限り、バッグは確実に持ち主のもとに届く。

 青くなったのはSくんが「チケットはないです」と言った時である。

 Sくんは飛行機が初めてだった。乗客は搭乗手続きをしたあと、荷物検査のゲートをくぐる。人間もバッグも金属探知機を通過しなければ飛行機に乗せてもらえない。初めてのSくんはそこでバッグを預けたものと思い込み、手ぶらで飛行機に乗ってしまったのだ。

(つづく)

—–

昔はそうでもなかったが、10年以上前から、ボケットに小銭を入れていても空港の金属探知ゲートのブザーが鳴るようになった。

11年前、北京から南京まで中国の国内線に乗ったことがある。

北京空港の金属探知ゲートで、ポケットの小銭(円と元の混合)のせいでブザーが鳴った。

凛々しい雰囲気の女性係官が、私の体中を探る。

よく見ると、係官はかなりの美女。

私は半袖のシャツとズボンだけというカジュアルで単純な服装だったのだが、4分間ほどボディチェックが続いた。

007シリーズの映画の一シーンに出演しているような感じがして、少しだけ嬉しかった。