将棋世界2002年5月号、深浦康市七段(当時)の第27期棋王戦(羽生善治棋王-佐藤康光九段)観戦記「二手損と千日手回避」より。
将棋の世界に入らなければ会えなかったタイプの人―と問われればまっ先に森下卓八段の名前を挙げる。私が花村門下に入門して間もないある時、一本の割りばしの端を両手で持って下さい、と渡された。目の前には名刺程の紙を持った兄弟子。真剣な表情で気息を整え、ヤーッと割りばしに向かって振りおろす。割りばしは見事まっぷたつに折れる――訳がない。
兄弟子によると、割りばしを紙切れで折るという普通に考えれば無理な事でも、気功を高めれば必ず出来ると言うのである。それと同じ事で古くなった電話帳を腕力だけで切り裂くこともしていた。
「うーん、踏み込みが甘かったか」と反省しながら何度となく繰り返す。私は自分の手に気功の固まりが振りおろされないことを念じて立っていた。そしてえらい世界に入ってしまったな、と12歳ながらに思ってしまった。しかし何事も将棋にプラスになるならば試したい、という姿勢は兄弟子から一番教えられた事柄である。
佐藤康光九段も森下八段程ではないが、将棋の世界での修行などによって形成された人格だと思う。将棋に対して真面目なのは全ての棋士に当てはまることだが、その真面目さが人格に伝播したような印象である。つまりは純粋培養されたという事。
奨励会の時、毎日のように将棋連盟で深夜まで勉強してそのまま高校に通っていた事や、将棋のイベントに遅刻して秋田-青森間をタクシーで走行させた事。東京での将棋の日が終わった後、約30名の奨励会員にねぎらいの意味で焼肉をふるまった事など、ほんわかとするような逸話が多い。
その人の良さが滲み出るような佐藤が鬼の形相でタイトルを奪いに来た。王将戦と並び、羽生-佐藤のダブルタイトルマッチはこの棋王戦第3局で天王山を迎えた。
(中略)
さて羽生棋王は将棋の世界でしか会えなかった人物だろうか、と考える。もちろんここ数年にわたり将棋界をリードしてきたのは紛れもない事実である。
ただ将棋をゲームの一つととらえ、要点をかいつまんで分析する能力は、企業などにいても遺憾なく発揮されていたに違いない。本人も本誌のインタビューで「自分の優先順位の一番は将棋ではない」と言い切っている。第一人者でもありながら柔軟。これが羽生善治の凄みでもあろう。
(以下略)
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割り箸の件は、深浦康市少年12歳、森下卓四段(当時)17歳の時の話になる。
同じ花村元司九段門下の窪田義行六段の入門当初も、同じ経験をした可能性が非常に高いということになる。
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私は1989年~1991年の3年間、かなりの頻度でライブハウスに通っていたことがある。
好きな音楽をライブで聴きながらバーボンの濃い水割りを飲むのは、至福の時間だった。
よく行ったのは、グループサウンズと1970年代の洋楽を中心とした店。
バンドのバンマスは、グループサウンズ出身の昔気質で、当時50歳だったにもかかわらず見かけは30代半ばという、とても格好いい人だった。
グループサウンズやローリング・ストーンズなどの曲では、ステージでジャンプしなければならない。
バンマスは、着地した瞬間にギックリ腰になることも多かったという。
いろいろな治療を試した。
その結果、最も効果があったのが、気功ということだった。
そういう意味では、気功に着目した森下卓四段(当時)は慧眼だったといえる。
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厚手の電話帳を手で破いた有名な例としては、生傷男と呼ばれた超悪役プロレスラーのディック・ザ・ブルーザー。
1969年の来日時、記者会見で上半身裸になり、電話帳を破いている。
多くの日本人に戦慄が走ったが、これは気功とは関係なく、その腕力によるものだ。
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「将棋の世界に入らなければ会えなかったタイプの人」
なんと素晴らしい言葉なのだろう。