谷川浩司棋聖(当時)の自宅テレビ観戦記

近代将棋1993年6月号、谷川浩司棋聖(当時)の名人戦第1局〔中原誠名人-米長邦雄九段〕観戦記「名人戦TV観戦記」より。

 12日、午前9時

 4月は皆が心弾ませる季節である。

 入学、就職、桜、そして将棋は名人戦。

 自分の出ていない名人戦ほどつまらないものはない。早く終わってしまえばいいのに―。などと口では言っていても、やはり名人戦は気になる。

 この日も、最近の私にしては珍しく早起きをして、TVの前に座った。ところが―。

 9時になっても中継が始まらない。

 チャンネルを間違えているわけでもないし、と新聞を見てやっと思い出した。

 今日はん「納采の儀」でありました。

 これこそ、皆が心弾ませる、おめでたい事ではないですか。

 TVは9時半からということで、30分間を利用して二人の調子を考えてみる。

 まず、中原名人。

 流石に名人戦登場が18度目というだけあって、名人戦に向けての調製は見事である。年が明けてからは、好調を持続しておられる。

 対して、挑戦者の米長九段。

 挑戦権を獲得するまでは好調だったのだが、ここへきて翳りが見える。深浦四段との全日プロ2・3局は何れも終盤での逆転負けだった。

 午前9時半

 TV中継開始。盤面は既に18手進んでいて、いきなり例の形である。

 振り駒は歩が4歩出て、中原名人の先手。最初は相矢倉で、リードされた時に中原流の相掛かりが出る、と予想したのだが―。

 この戦法も登場して1年以上経つが、後手番の対策は遅々として進まない。

 理由としては、中原名人以外に指す人が殆ど居ない事が挙げられる。

 年に2局、中原名人と対戦するとしても、後手番は1局。年に1回ではなかなか本気で研究する気になれない。

 矢倉、角換わり、振り飛車。私達もやる事は多いのである。

 この戦法を指しこなすには、独特の感覚が必要だ。

 4月8日、王位戦で羽生竜王が指してきたが、1筋を突き捨てるタイミングを逸したため、攻めに失敗している。

 とりあえずちょっかいをかける。少し指し過ぎか、と思えるぐらいの細い攻めをつなげなければ、勝つことはできないのである。

 午前11時半

 1日目だということで、大きな動きはないと判断。京都へ花見に出かける。

 ここまでのポイントは、27手目の▲5六飛。

 ここで、▲2二角成△同銀▲8八銀の流れも、中原名人は経験済みである。

 せっかくの花見なのに、3年前の名人戦を思い出してしまった。

 それはともかく、今年の春は寒かったので、桜の花がよくもった。哲学の道の桜は最高だった。

 ただ、今日初めて南禅寺へ行った、というのは坂田三吉の曾孫弟子としては失格だったかもしれない。

(中略)

 13日、午前9時

 昨日と同じようにTVの前に座る。今日は大丈夫だろうな、と思いながら新聞を見ると、何と午後から国会中継である。

 納采の儀に勝てないのは仕方がないとしても、内容のない国会に負けるとはどういうことか。NHKには文句を言いたい。

 封じ手は△1三同香だった。

(中略)

  午前11時55分

 61手目▲7七同金の局面で、午前中のTVは終了した。

(中略)

 3時から取材を受ける。これは1時間程で終わったが、国会中継は延々と続き、名人戦にも食い込んで午後5時9分にやっと終わった。

 午後5時から10分

 再び名人戦中継。局面は20手近く進んでいたが、途中の指し手はすぐ理解することができた。それだけ一本道になっている証拠である。

(中略)

 午後6時

 ▲2二金は中原名人らしいが、いかにも重く、指しにくい手である。

(中略)

 結局この50分の放送枠の中では、△8九飛の一手しか指されなかった。 

 翌日の新聞を見ると、△8九飛に54分使って、後手の残りは25分となっている。時間切迫の中でも54分の長考ができる、というのは米長九段の凄さである。

 一方、中原名人の残りは2時間半以上もあった。

 6時になったので、TVのチャンネルを野球に変える。阪神-ヤクルト戦。

 午後9時35分

 野球は2-2の延長線。未練を残しながらも、チャンネルを名人戦にもどす。

 まだ対局が続いていたのには感動した。

 そして驚いた事に米長九段の必勝形になっているのである。

(中略)

 午後9時55分

 A図の△5七桂不成があったとは、中原名人も不運だった。この手を発見したのは、91手目▲4一竜の44分の間だったと思う。そして、この将棋の敗戦を覚悟したに違いない。

 9時46分。1分将棋の中で、米長九段は見事に勝ち切った。

(中略)

 9時55分。チャンネルを変えると、野球はまだ続いていた。

 この一局が米長名人誕生のポイントになるのか、また、得意戦法で負けた中原名人に秘策はあるのか。

 野球も面白いが、名人戦もまた面白い。

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谷川浩司棋聖(当時)の、自宅にいながらのテレビ観戦記。

対局は宇都宮で行われていたが、すごい企画だと思う。

谷川棋聖が書くからこそ面白くなる。

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「納采の儀」は、皇室の儀式のひとつで、皇族が結婚するにあたって行われる結納に当たる。

1993年4月12日は、現在の皇太子徳仁親王と雅子妃との「納采の儀」が行われた日。

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現在では衛星放送以外にもネット中継があり、ニコ生では名人戦などの映像が対局開始から終了まで流れ続けているわけで、この時のような味のある雰囲気の自宅観戦記はなかなか書けない時代になってきているのかもしれない。

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1993年のこの頃は、3月6日に室谷由紀女流初段が、4月16日に香川愛生女流初段が生まれている。