羽生善治四段(当時)四段昇段後の初めての対局

将棋世界1986年3月号、中平邦彦さんの天才少年激突三番勝負第1局〔阿部隆四段-羽生善治四段〕観戦記「天才羽生、華やかに巣立つ」より。

 関西の阿部隆君と東京の羽生善治君。

 西と東の天才少年を戦わせようという企画である。阿部18歳、羽生15歳。第二の中原、谷川になり、未来の将棋界を背負って立つだろうという超大物新人の激突だ。

 編集部は以前からこの企画を考えていたらしく、羽生君が新四段になるのを待つようにしてこの顔合わせが実現した。

 三番勝負で、勝った方に賞金が出る。それでなくてもライバル同士、願ってもない相手との対決とあって気合も入ろうというもの。見る方もわくわくする勝負だ。

 阿部君のことから書こう。

 関西の若手たちは、阿部君が

「こんなん、どうやっても勝ちでしょう」

 と言う癖をよく知っている。感想戦のとき、負けるとくやしくて口走る。だから「こんなんの阿部」と言われている。

 負けん気が人一倍強く、気性も烈しいからこれが出る。まだ15歳のときぐらいから先輩相手にこれをやり、一歩もひくことがなかった。

 中学の制服を着た阿部君は、丸顔のかわいい少年だった。しかし6級で入会したときから大器と言われた。そして期待にたがわず、7割5分の勝率で勝ち上がり、1985年3月にはあと1勝で四段のところまで来た。ここで勝てば1985年度の順位戦に間に合う。

 相手は本間三段(現四段)。阿部は闘志満々で臨み、必勝の形勢になった。そして一直線に敵玉を詰ましに行ったが、そこに小さな穴があいて詰みを逃した。それでもまだ勝っていたのに、それも逃して逆転負け。この年の順位戦を棒に振った。

 「こんなん、どうやっても」

 の声が対局室に響いたのはいうまでもない。

 一方、勝った本間君は調子づき、連戦連勝してあと2勝で四段のところまできた。このとき阿部君は

 「上がってしまうまでに本間さんともう一度指させてください」

 と幹事に申し出た。上がるのなら自分を負かしてから上がれ、というわけだった。

 成績がいい者が出たらみんなでつぶしに行くというのが関西の伝統だが、阿部君の場合は純粋な、負けず嫌いの気持ちからだった。

 かくて同一対局は3ヵ月に1回が普通なのに、3月から5月にかけて本間-阿部は三回激突。お陰で本間君の昇段も少し遅れた。

 しかし二人は頑張って勝ち進み、1985年6月10日、まったく同じ日にアベック昇段を果たした。

 この話、なんでもないようだけど、将棋界に籍を置いている人ならその大変さがわかる。奨励会というのは不安定で、なんの保証も収入もない立場だ。四段になって初めて棋士として認められ、一人前になる。その四段になれるかどうかの不安は深刻で、年若い少年たちは深く悩むのだ。いまは九段に昇りつめた棋士でさえ、なお奨励会時代の夢を見てハッと目が覚めたりするほどのものなのだ。

 その不安を超えて、宿敵と敢えて指させてくれと申し出る負けん気はすばらしい。とくに本間君は苦節10年の奨励会生活だった。

 阿部君は3年7ヵ月のスピードで卒業した。あの中原名人が8年、谷川前名人が3年9ヵ月だから、その早さがわかろう。三段になったころから「次の五段は阿部」と言われたほど光っていた。阿部なら四段の難関を突破するだろうという意味である。

 阿部君は母一人子一人だ。

 母親が女手一つで育ててくれた。その苦労をよく知っているから、四段になったとき、

 「もう仕事辞めてもいいよ」

 と母親に言ったそうだ。親のスネばかりかじっている軟弱青年に聞かせてやりたい言葉である。ハングリーと泣きが入った棋士の誕生である。鍛えが入るのはこれからだ。

 さて、注目の第1局は羽生君は西下して関西本部で行われた。持ち時間はチェスクロックの各2時間。振り駒で阿部君の先番だ。

(中略)

 羽生善治君。はぶ・よしはると読む。

 少し前から名前を聞いていた。

 「谷川二世が東京にいるらしい」と。

 こういう情報は、すぐに煙が立つ芸能界とちがって割合に確実だ。なにしろ専門家が見ているのだから。

 そして予想通り、この12月に羽生君は四段になり、谷川以来の中学生棋士の誕生となった。八王子市立恩方中学3年である。阿部君もスピード昇段だが、羽生君も奨励会をたった3年で駆け抜けてきたというからもっとすごい。

 東京の奨励会には羽生君と同世代のライバルがひしめいている。1年先輩の先崎学、同期の郷田真隆、森内俊之君らだ。その中から羽生君が一人抜け出し、先に四段になった。いずれみんな上がってくるだろうが、羽生君の昇段スピードがいかに早いかの証明でもある。

 将棋は小学1年のとき、友だちから教わった。

(中略)

 そして三段になったころには、慎重な二上九段が

「A級八段はまず間違いない」

 と公言するようになる。そのめがね通り、15歳四段の誕生となった。

 若さというのはすばらしい。まぶしくて、うらやましい。なにしろ豊かな持ち時間がある。可能性がある。羽生君の場合、あと10年たっても25歳、20年たっても中原名人より若いのだから、その長さを思うと、中年はがく然としてしまう。

 その日は日曜日で、襖を締め切っての対局は何やらタイトル戦の雰囲気。

 どっしりとした感じの阿部君に対し、羽生君は小柄でやせていて、ひっそりと座っている。坊ちゃん刈りに眼鏡。賢そうな顔。一見してパソコン少年みたいだった。

 お母さんに作ってもらった濃紺の背広にネクタイがういういしいが、首が細いからシャツが合わず、いかにも少年らしい。しかし、盤をみつめる表情は鋭く、隠そうとしても隠せない負けん気の強さとシンの強さがうかがえる。

(中略)

 局面は阿部の誘導で相掛かり腰掛銀だ。

 羽生にとっては四段になって初めての対局だが、実はこの二人、奨励会時代に一度戦っている。

 1984年10月に東西合同の奨励会旅行があり、決勝で会おうと言った。ところが二人とも準決勝で負けてしまい、三位決定戦でぶつかった。このときは相矢倉で阿部が勝っている。羽生はそのお返しをしたいし、阿部も年上だから余計負けられない。

 二人とも居飛車党で、攻め七分。いや、阿部は攻め八分という若手もいる。この大事な第1局に阿部が初めて指すこの戦法を採用したのも、攻めに自信があったからだ。羽生もこの形を指すのは初めてだった。

(中略)

—–

お互いに初めて指す相掛かり腰掛銀の出だし。昔の棋書ではガッチャン銀戦法と呼ばれていた。

羽生阿部第1局1

ここから羽生四段は、後手番でありながら、積極的に攻めかかる。

〔1図以下の指し手〕

△6五銀▲同銀△同歩▲3七桂△6六歩(2図)

羽生阿部第1局2

△6六歩が皆を驚かせた手だった。▲同角なら△同角▲同歩△6五歩で△4四角を見せている。

△6六歩以下は、▲同歩△9五歩▲同歩△9七歩(3図)

羽生阿部第1局3

中平邦彦さんの観戦記では、”鍵のかかったドアをこじあけるような攻めで、一見「大丈夫かな」と思うほど強引に見えた。桂の参加もないのに攻めるのだから攻めが細い。だが、阿部はすっかり考え込んでしまった”と書かれている。

▲9七同香なら△9八銀が狙いの攻め。ここでは▲9七同桂が最善ということだが、阿部四段は▲8六銀。

ここから更に熱戦が続いて、128手で羽生四段が勝った。

—–

 「負けました」と阿部は頭を下げたが、羽生は何故か、ぼうっとした表情になった。うれしさを隠したのだろうか。

 「不本意な将棋でした」

 長い感想戦のあと、阿部は言い、▲8六銀の不当と▲9六歩の打ち損ねを悔いた。勝った方の羽生が小声でボソボソと話していたのが面白い。一緒にお茶を飲み、羽生君が東京へ帰ったあと、阿部君は連盟に戻り、奨励会の友人たちと将棋を並べ直した。

 「次は勝ってやる」という顔だった。

—–

羽生善治四段(当時)の四段昇段が1985年12月18日、この対局が1986年1月12日に行われているので、本当に電光石火の企画だったと言える。

それにしても、羽生四段は中学3年生の3学期、前の週の水曜日ぐらいに始業式があって、それから間もなくの対局。

中学生が普通の背広を着るというのも、よく考えてみるとなかなか珍しいことだ。

—–

中学生棋士の歴史をたどると、

加藤一二三四段(当時)の誕生が1954年8月1日(中学3年・14歳7ヵ月)、谷川浩司四段(当時)の誕生が1976年12月20日(中学2年・14歳8ヵ月2週間)、羽生善治四段が1985年12月18日(中学3年・15歳2ヵ月3週間)、渡辺明四段(当時)が2000年4月1日(四段昇段を決めたのが中学3年の3月で15歳11ヵ月)。

加藤一二三九段は1月1日生まれ、谷川浩司九段が4月6日生まれなので、学年では谷川浩司九段が最年少ということになるが、生まれてから四段になるまでの日数ということでは加藤一二三九段が最年少ということになる。

とにかく、すごいことだ。

 

タイトルとURLをコピーしました