加藤一二三九段「パパ勝ったよ」

将棋ペンクラブ会報2001年春号、笹川進さんの「A級順位戦最終局裏レポート 加藤一二三九段編」より。

△加藤九段は朝、コートはもちろん、その下の背広も前をはだけ、トレードマークの長いネクタイを北風にはためかせて、トットットッと、ほとんど小走りでやってきた。あの勢いで角なんかでぶつかったら、ふっ飛ばされるだろうなあ。

▲その加藤九段、対局室でまず座布団を取り替え(全く同じもの)、将棋盤の位置を変え(おかげでテレビ画面から駒台がはみ出した)、「電気ストーブを買ってきてください」と、注文した。控え室では、「ストーブのお金は誰が払うの?」「加藤先生が持って帰るのかな」と、格好のネタになっていたけれど、それもこれもすべては将棋に集中するため。その気迫が残留を決めた、と思う。

△勝ちが決まった瞬間、加藤九段が対局室を飛び出したので、森下八段が一人、感想戦を待つハメに。炬口カメラマンによると、「パパ勝ったよ」と、家に電話したらしい。なんかカワイイ(笑)。

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笹川さんは近代将棋2001年5月号で、『A級順位戦最終局密着レポート「将棋界の一番長い日」』を書いているが、会報の記事はその裏バージョン。

表記事→10年前の将棋界の一番長い日(加藤一二三九段編)

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加藤一二三九段は、ストーブに象徴される勝負に懸ける執念が実り、自力で残留を決めている。

電気ストーブ、戦前の対局ならば火鉢になっていたのだろう。

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坂田三吉は、南禅寺の決戦の際に火鉢を断っている。

織田作之助「聴雨」より。

 けれども、私も京都に永らく居たゆゑ知つてゐるが、対局を開始した二月五日前後の京都の底冷えといふものは、毎年まるで一年中の寒さがこの日に集まつたかと思はれるほどの厳さである。ことに南禅寺は東山の山懐ろで、琵琶湖の水面より土地が低い。なほ坂田は六十八歳の老齢である。世話人が煖房に細心の気を使つたのはいふまでも無からう。古来将棋の大手合には邪魔のはいり勝ちなものである。七日掛りの対局といふからには、一層その懸念が多い。よしんば外部からの故障がなくとも、対局者の発病といふこともある。対局場の寒さにうつかり風邪を引かれては、それまでだ。勿論、部屋の隅にはストーブが焚たかれ、なほ左右の両側には、火をかんかんおこした火鉢が一個づつ用意された。 

 それを、六十八歳の坂田は、「火鉢にあたるやうな暢気な対局やおまへん。」と言つて、しりぞけたのである。

ところが、三日目になって火鉢を手元に置いた。

 して見れば、対木村の一戦は坂田にとつては棋士としての面目ばかりでなく、永年の妻子の苦労を懸けた将棋である。火鉢になぞ当つてゐられないのは、当然であつたらう。――さう思へば、坂田のあの詞もにはかに重みが加はつて、悲壮である。ところが対局がはじまつて三日目には、もう彼はだらしなく火鉢をかかへこんでゐる、これはなんとしたことであらうか。 観戦記者や相手の木村八段や令嬢が、老齢の坂田の身を案じて、無理に薦めたのか、それとも、強いことを言つてゐたけれど、さすがに底冷える寒さにたまりかねて、自分から火鉢がほしいと言ひだしたのであらうか。「火鉢にあたるやうな暢気な対局やおまへん。」と自分から強く言ひだした詞を、うつかり忘れてしまふくらゐ耄碌してゐたのか。 あるひはまた、火鉢にもあたるまいといふのは、かへつて勝負にこだはり過ぎてゐるのではないかと、思ひ直したのかも知れない。かねがね坂田はよく「栓ぬき瓢箪」のやうな気持で指さんとあかんと言つてゐる。

織田作之助の「聴雨」は、南禅寺の決戦の観戦記を読んだ感動や思いを中心とした随筆。

青空文庫で読むことができる。→織田作之助「聴雨」

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「夫婦善哉」などの名作を生み出した織田作之助。

織田作之助が愛したのが、大阪難波「自由軒」のカレーライス。

「自由軒」は明治43年に大阪初の西洋料理店としてオープンした。

「自由軒」のカレーライスは、ご飯とカレーを混ぜ合わせ、その上に玉子を乗せる独特の調理方法。

炊飯器といったご飯を保温できる設備のなかった時代、創業者が熱々のカレーを出すために考案した名物「混ぜカレー」だ。

自由軒ホームページ

名物カレー(混ぜカレー玉子乗せ) 650円

ハイシライス(混ぜハヤシ玉子乗せ) 650円

別カレー(通常のカレー玉子乗せ) 650円

など、私は行ったことはないが、気になるメニューが満載だ。

自由軒と織田作之助