志村けんさんと故・米長邦雄永世棋聖の対談

将棋世界2003年4月号、「米長邦雄永世棋聖円熟対談 ゲスト:志村けん」より。

米長 将棋がだいぶお好きなようですね。

志村 将棋は子どものころ覚えました。それ以来ずーっとやってなくて。ドリフターズの『8時だよ!全員集合』をやっているころ、休憩時間なんかがあるとみんなで指していました。

米長 だいたい同じような棋力ですか。

志村 Aクラス、Bクラス、Cクラスがあって、うまい順に駒も違うんです。

米長 駒も違う(笑)。

志村 Aクラスがいかりやさん(長介)と仲本さん(工事)。次に僕と加藤さん(茶)。僕はいかりやさんに何回かに1回勝つぐらいですね。高木さん(ブー)だけがあまりやらないのかな。考えると寝ちゃうんでね(笑)。

米長 だからブーっていうんだ(笑)。

志村 『8時だよ』の番組では朝10時からリハーサルやって、12時ぐらいから歌手の人が音合わせで練習しているときに1時間ほど空くんですよ。そのとき飯を5分ぐらいで食っちゃうから(笑)、将棋を指せば1時間半は楽に持ちます。Aクラスの人は1時間半たっても勝負がつかないで、盤面をそのままにしてまた仕事に戻るんですが、僕は考えるのが苦手なんで、2~3局は指しましたね。

米長 ほかの芸能人と将棋を指すことはありましたか。

志村 徹ちゃん(渡辺徹。俳優)とある番組で会ったとき、よく指しました。

米長 どっちが強いんですか。

志村 徹ちゃんのほうが全然強いです。彼と指すときは、王様を全部囲います。あれはなんという名前ですか。

米長 穴熊ですね。

志村 そう。穴熊に囲わないと徹ちゃんはすぐに攻めてくるんです。両方、穴熊になるとなかなか終わりませんね(笑)。

米長 お2人とも相当な力ですよ。有段者でないと相穴熊にはならないんです。その前に喧嘩が始まってしまいますから。

志村 将棋を指すとき、まず囲いをどうするかって考えますね。僕は王様を囲わないで攻めるのは嫌いなんです。

米長 それは理想的じゃないですか。

志村 あっ、そうだ。吉田拓郎さん(歌手)とも指したこともあります。番組の収録中に飲みながらトークをしながらやったんですが、勝負がつく前に番組の収録が終わってしまって(笑)。

米長 志村さんが佐藤くん(康光棋聖)と森内くん(俊之名人)と飲んだことがある、と聞いたことがありますが。

志村 以前に徹ちゃんが呼んだのかな。そのとき、どちらかが徹ちゃんと盤なしで将棋を指していました。すごいですね。信じられないですよ。盤があれば僕も見れるけど、頭の中でやっているものだから、僕には分からなかったです(笑)。

(中略)

米長 (「バカ殿」で)将棋のコントもたまにありますが、あれは志村さんが考えるんですか。

志村 そうですね。うちの作家もディレクターも将棋ができないので、だいたい僕が考えます。最初にやったのは柄本明さん(俳優)とで、指し手が将棋盤から外れていき、「7六ちゃぶ台」「3四座布団」なんて言うんです。

米長 そうそう(笑)。ほかのネタも?

志村 コントの部分はそうですね。1時間半の番組だと、コントを考えるのに5日はかかりますね。

米長 将棋のタイトル戦以上に大変じゃないですか。笑っているのはテレビを見ているほうで、やっているほうは笑えない状態なんですね(笑)。

志村 だから雑誌の対談なんかで「作るのは大変だ」なんて言いません。いかにも遊び半分でやっているように見せないと、見ているほうが楽しくないんでね。

米長 将棋とは逆なんだ。こっちはいい加減だけど、真剣にやっているように見せないとみんなに怒られるからね(笑)。ところで、テレビ将棋は見ますか。

志村 見ます。羽生さん(善治竜王)のときは結構見ちゃうんですよね。それから加藤一二三さん(九段)が面白い。あの人は上からのカメラの映像で見ていると、ずっと頭が動いているのが気になっていたのを覚えています。それで将棋のコントをやったときは、対局中にカメラをソーッと見上げたりして(笑)。

米長 それは面白い(笑)。

志村 コントと将棋で似ていると思うのは、「こっちがこういけば、たぶん相手はこの駒使うだろうな。じゃあ、この駒を使いやすくしよう」っていうふうに、いいところを出すようにするとすごく面白くなるんです。とくに加藤さん(茶)とは長年やってますから呼吸が合い、2人っきりだと台本はほとんどいりません。

米長 さすがプロ同士ですね。型にはまらないから面白いんですね。

志村 でもなあ、将棋ってすごいものですよね。人の物(駒)を取って攻めてくるでしょ。ああいうのはほかにないですよね。遊びにしては深すぎますよね。

(以下略)

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毎年8月下旬に「麻布十番祭り」が開催される。

1985年前後のことだったと思う。

「麻布十番祭り」最終日の夜、「ミス麻布十番祭りコンテスト」が行われた。

審査員には、その当時麻布十番に住んでいた志村けんさん、芸能評論家の故・加東康一さんが加わっていた。

出場している女性は水着姿。

この時ミス麻布十番祭りに選ばれたのは、プロポーション抜群で凛々しい感じの女性だった。

志村けん特別賞(志村けんさんが独断で決める)に選ばれた女性は、ふんわりとした可愛らしい雰囲気。

個人的には志村けん特別賞の女性のほうが好みかな、と思ったりしながら見ていた。

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昭和の末期の頃だったと思う。

六本木のクラブ(踊るほうではない)に行ってしばらくすると、隣の席に志村けんさんが座っていることに気がついた。

内心ビックリしたが、プライベートで一人で飲みに来ているわけなので、その存在を意識せずに、見ない・聞かない・話しかけないのが礼儀。

当然のことながら、志村けんさんがいつもバカ殿のようであるわけはなく、本当に静かな雰囲気で飲んでいた。

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平成の初めの頃の話。

正月に実家に帰ると、小学校低学年の甥や姪が必ず新春特番「志村けんのバカ殿様」を観ていた。

普段はテレビを見ない私だったが、一緒に見ると、バカ殿があまりに可笑しくて声を出して笑ってしまうほどだった。

数日後、東京に戻ると、急に腰が痛くなった。

お辞儀をするのも困難な痛さ。

まさかギックリ腰になってしまったかと整形外科に駆け込んだ。

レントゲンを撮ってもらうと、背骨には異常がなく、それどころか一生ギックリ腰にはならない背骨だと誉められた。

筋肉痛だという診断だった。

そういえば、甥と姪が、「志村けんのバカ殿様」を観ている最中ずっと、寝転がっている私の背中に乗っかっていた。

それが原因だったのだろう。

今までの人生で1回だけ行った整形外科。私は、整形外科というとバカ殿を連想してしまうようになってしまった。

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3年前のブログ記事で、志村けんさんの「東村山音頭」誕生のきっかけが将棋であったことを紹介している。

「東村山音頭」誕生秘話