羽生善治四冠(当時)「先崎君がとても悲しみます(笑)」

将棋世界2000年1月号、新春ビッグ対談「宮部みゆき&羽生善治」より。企画・構成は水町悠さん。

宮部 私の父が大の将棋好きなんです。だから羽生さんと対談すると言ったら、すごくうらやましがっていました。私も将棋にとても興味があるので、今日はいろいろとお話をさせてください。

羽生 こちらこそよろしくお願いします。私も作家の方のお話を聞くのを楽しみにしていました。

宮部 私は子供のころ、姉と一緒に父から将棋を習わせられたんですが、駒の動かし方をやっと覚えた程度なので、腕前の方は全く駄目でしたね。だから私は、将棋のできる方をとても尊敬しています。実は、私の作品の中には将棋の強い少年が登場する小説があるんですよ。

羽生 あっ、そうなんですか。何という題名の小説ですか。

宮部 『今夜は眠れない』という小説です。頭脳明晰な少年探偵の役で、別に将棋を指す場面は出てきませんが、頭の良いキャラクターということで学校では将棋部のエースという設定にしました(笑)。

羽生 私は5年前、『龍は眠る』というテレビドラマを見ました。宮部さんの作品を見たのはそのときが初めてで、それ以来、何冊か読んでいます。中でも『火車』が面白かったですね。

≪『火車』は消費者金融をテーマにしたミステリー小説で、平成5年に山本周五郎賞を受賞した。テレビでもドラマ化され、三田村邦彦、財前直見らが出演した≫

羽生 『火車』には、大阪球場の中に住宅展示場がある場面がありますね。実は、大阪球場の近くのホテルで対局したことが以前あったので、あの場面がなぜか印象に残っているんです。

(中略)

宮部 私は羽生さんに対して、爽やかな印象を持っていましたが、やっぱり思った通りでした。それに、とても普通の方ですね(笑)。将棋の棋士の方が推理小説を読まれるのも、ちょっと意外でしたが、本を読む時間なんてあるのですか。

羽生 対局以外の日は基本的に本人の自由ですから、読書する時間は十分にあります。私は以前、移動中によく本を読んでいました。棋士仲間にも本好きがけっこう多いんです。実は昨夜、そのうちの一人が私の家に電話をかけてきて、「僕を差しおいて宮部みゆきさんと対談するとは許さん!」と言われたんですよ…(笑)。

≪羽生宅に電話をかけてきたその棋士とは、先崎学七段である。先崎七段は宮部さんをデビュー当時から注目していて、全作品を読んでいるそうで、この世で最も好きな女性は作家なら宮部みゆき、歌手なら中島みゆきとのこと。もちろん繭夫人は別格だが…≫

宮部 そうなんですか。デビュー当時から読んでいただいているとは、とても光栄です。

(中略)

羽生 私は振り返る意味で自分の将棋をパソコンでたまに見ることがありますが、宮部さんは自分の小説を読み返すことはありますか。

宮部 ほとんどありません。というか、恥ずかしくて読めないんですよ(笑)。本が再版になったとき、手を入れるために読む程度ですね。例え話で言えば、作者の私は旅先で赤ちゃんを産んで見捨てた母親みたいなもので、7、8年たったら木陰から成長ぶりをそっと見守りたいという気持ちですね(笑)。

羽生 8年もたったら、ここは直したいというのがあるんじゃないですか。

宮部 直し始めたら、きりがないんですよ。子供が少しぐらい不器量でも、読者が可愛いと言ってくれるならばいいじゃん、ということですね(笑)。

(中略)

羽生 私は自宅で将棋を研究するのは、昼だといろいろと雑用があるので、夜が多いんです。でもいざやろうと思っても、頭が将棋モードになるまで助走が10分ぐらい必要なんですよ(笑)。そんなときは、易しい詰将棋を何題も解いたりします。一種の基礎トレーニングですね。

宮部 私も書きだすまでは、助走が必要ですね。でもぼんやり考えているうちに、まあ今日は助走だけにしようということもあります(笑)。私たち作家の基礎トレーニングは人によって違いますが、私は自分の好きな作家や小説を書き写すという勉強法を取り入れたことがあります。

(中略)

宮部 こんどは私の方から羽生さんにいくつか質問をします。もし羽生さんが棋士になっていなかったら、あるいは転職するとしたら、どんな道を進んでいると思いますか(笑)。

羽生 ウーン、答えにくい質問ですね(笑)。強いて挙げるなら、何かを研究して発表する学者が面白いと思います。何しろ勝負がつきにくいからです。

宮部 これは私の想像ですが、羽生さんは天文学者がお似合いのような……。子供のころ、天体観測なんかやってませんでしたか(笑)。

羽生 ああ、そう見えますか。実が私の実家は八王子の田舎なもので、星がとてもきれいなんです。だから子供のころは、天体望遠鏡で夜空をよく見ていました。

宮部 私が抱いている棋士のイメージは、記憶力が良くて思考が論理的で、だけど勝負の場では感情を抑制して決して激昂しない、というものなんです。そうじゃないと、将棋の世界で勝ち抜いていけませんよね。

羽生 鋭い指摘ですね。確かに宮部さんの言う通りです。でも私の本心を言うと、棋士を目指していた子供のころからの習性で自分のミスが出ても知らんぷりするのは、かえって嫌だなあと、最近は思うようになりました。

宮部 それって、人間的でありたいということなんでしょうか…。ところで、私たち作家はえてして独りよがりになりやすいんです。編集者も作品の内容のことであれこれとあまり言いません。だから時々、今の自分は10年前と比べて、果たして小説がうまくなっているのだろうかと思うことがあります。

羽生 それは私も同じです。以前と比べて、自分の将棋はもっと強くなっているのだろうかと…。昔の自分と今の自分が指すことができたら、よく分かるんですが、実現したら勝負の結果が怖いものがあります(笑)。

(中略)

宮部 エンターテイメント小説の世界は、作家の顔ぶれや作品の内容ががらっと変わりましたね。旧世代と新世代の作家ではギャップがかなりあり、私は旧世代の最後の残党なんです(笑)。正直なところ、何年後かに私は作家として残っているのか、不安に思うことがたまにあります。もし駄目なら、また速記記者でもやります…(笑)。

羽生 そんなこと言わないでくださいよ。宮部さんの小説をすべて読んでいる先崎君がとても悲しみます(笑)。

宮部 21世紀はインターネットの時代ともいわれ、活字中心の小説の世界もちょっと先が見えないんです。小説の売上も全体的に落ちています。だけど、作家になりたい人は増えているんです。新人賞には、多くの人が応募してきますからね。

羽生 新人賞って、作家になりたい人のステップなんですか。

宮部 そうなのですが、新人賞受賞者が最終的に専業作家として残るのは、50人に1人ぐらいの確率なんですね。京極夏彦さんは小説をじかに出版社に持ち込んで認められ、ベストセラー作家になりましたが、京極さんほどスケールが大きくないと、なかなかそうはいきません。

羽生 作家の世界もなかなか厳しいですね。ところで宮部さんは今年、直木賞を受賞されましたが、あの賞は生涯で1回しかもらえないのですか。

宮部 どの文学賞もそうで、羽生さんみたいに◯◯を3連覇というのはないんです。そういえば羽生さんが七冠を取られたころ、私たちの世界でもあの賞とこの賞を取って三冠だ、なんていう話をしていたんですよ(笑)。

羽生 今日は文壇の興味深いお話をたくさんお話しいただき、ありがとうございました。

宮部 こちらこそありがとうございました。最後に、羽生さんにお願いがあります。将棋好きの父のために、どうか色紙を書いていただけますか。

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非常に会話のキャッチボールがうまくいっている有益な印象の対談。

水町悠は田丸昇九段のペンネーム。

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『今夜は眠れない』に出てくる頭脳明晰な将棋部のエースの少年探偵は島崎俊彦という名前で、『夢にも思わない』にも登場する。中学1年生。

将棋部のエースや囲碁部のエースというと、物理部のエース、天文部のエース、文芸部のエース、吹奏楽部のエース、野球部のエースなど他の部のエースに比べて、少年探偵に向いているように思えてくるから不思議だ。

将棋や囲碁に関しては、中学生だからといっても大人よりも強いケースがあるわけで、そのような頭脳というか信頼性があるのが原因かもしれない。

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羽生善治四冠(当時)は「頭が将棋モードになるまで助走が10分ぐらい必要なんですよ(笑)。そんなときは、易しい詰将棋を何題も解いたりします」と話しているが、私から見ると、易しい詰将棋を解き始めた段階で既に将棋モードになっていると思うわけで、それぐらい羽生三冠の将棋モードは半端ではないということだと考えられる。

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宮部みゆきさんが「21世紀はインターネットの時代ともいわれ、活字中心の小説の世界もちょっと先が見えないんです。小説の売上も全体的に落ちています」と語っているように、この頃は元気だった近代将棋も週刊将棋も今は無くなっている。

昔は電車の中でも喫茶店の中でも、新聞やスポーツ紙や夕刊紙や週刊誌や文庫本を読む人が多かったが、現代ではスマホがそれに取って代わっている。

技術やインフラは発展したけれども、なかなか難しい時代だ。

宮部みゆきさんの小説は今まで読んだことがなかったが、今度何か読んでみよう。

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今夜は眠れない (角川文庫)

 

 

「羽生善治四冠(当時)「先崎君がとても悲しみます(笑)」」への4件のフィードバック

  1. 羽生さんも書名を挙げてらした「火車」を是非。長編ですが、一気に読み進んでしまいます。また宮部さんの作品には時代物も多く、個人的には回向院の親分が活躍する一連の短編をおすすめしたいと思います。

  2. 自分の意見はしっかり持ちつつも、相手へのリスペクトを忘れない、気負わず正直なお二人。対談というか、会話というのはこうあって欲しいなと。
    宮部さんもまた、“普通の人”という印象の方。このお二人の立場でなお“普通”でいることの普通でなさについて考えてしまいます。
    面白いものを読ませてもらいました。

    1. 黄色い雨さん

      この対談は非常に読みやすかったというか、会話の波長がとても合っていると感じました。この二人の立場でなお“普通”でいることの普通でなさ、本当にそうですね。

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