将棋マガジン1990年12月号、先崎学五段(当時)の第21回新人王戦決勝三番勝負第1局観戦記(森下卓六段-大野八一雄五段)観戦記「それぞれの新人王戦」より。
決戦の10日前、新宿のスナックS(注1)にて。登場人物―大野。その親友中村修。店のママM子。先崎。
M子 大野さん、新人王戦決勝に出たんですって―。賞金はいっぱい出るんでしょう。店のボトル全部買いきれるわね。
先崎 でも相手が強いんだよ。
M子 なんていうの?
中村 森下っていうんだけど、これが強いんだ。
先崎 森下さんていう人はね、酒もあまりやらない、ギャンブルはしない、とにかく真面目な人なんだ。
M子 あらやだ、大野さんの反対じゃない―(一同笑)
大野 俺も最後のチャンスだからなあー。
中村 なに元気ないこと言ってるんですか。
大野 いや、俺も今年で31だろ、新人王戦に出れるのは今年で最後なんだ。
先崎 大野さんも立派な中年になりましたね。
大野 バカ!(大野、先崎の首を絞める)
中村 森下君の先手番は定評があるからなあ―。
先崎 そうねえ、あの研究量はすごいですよ。でも相掛かりや、今流行りの角換わりなんかはあまりやらないでしょう。森下さんはレパートリーは広いけど、得意戦法はやっぱり矢倉しかない。その点大野さんは研究しやすいんじゃあ―。
大野 いや、俺、いま忙しいんだよ、ちょっとこれ見てくれ(大野、手帳を皆に見せる)
M子 本当だ。すごいわねえ―そんなに稼いでどうゆんのよ?
大野 でもさあ、俺がいくら稼いだって、結局は女房のところにいくんだ。俺は馬車馬のようなものだよ(注2)。ああ、その点森下君はいいよなあ―。独身で。ああ、結婚したのが人生の敗着だった。修ちゃんも結婚だけはしない方がいいよ。
中村 ・・・・・・(深いため息)
先崎 でも、森下さんて、独身のわりに震えますよね。勝負所で深く考えずに穏健策をとる欠点もあるし、そこにつけ込めば大野さんにもチャンスがあるんじゃないですか―。
中村 その言い方だと、まるで大野さんが不利みたいじゃない。
先崎 その通りじゃないですか―。(先崎、だんだん酔いが回り発言が荒くなる)
大野 そうだなあ……でも俺も滅多にないチャンスだからなあ。(大野、天井を見上げ、感傷的な気分にひたる)
同じ頃、東中野の『ゆうてりあ松本』(注3)にて、森下の独想。
(そうかあ、相手は大野さんか、僕もそろそろ優勝しないとなあ、去年は、あの羽生とかいう奴に叩かれて悲惨だったけど、今年は僕の年になるはずだ。大野さんは囲碁会(注4)その他でお世話になっているいい先輩だけど、勝負は別だからな。ここで負けたら一生優勝できないかもしれないよなあ。大野さんも好調だけど、僕の方が研究してるんだ。絶対僕の方が強いんだ。”震え”さえしなければ・・・そうだ僕の方が強いんだ、強いんだ・・・)
12:00―再び新宿S。大野『旅の夜風』(注5)を唄う。
「花も嵐も~~踏~~みこえて~~ゆ~~くが男の、生きる道~~」
中村、先崎「ヨッ絶好調」
大野 (唄い終えて)よし、頑張るぞ~~頑張るぞ~~
M子 そうよ。中年男の意地を見せなさいよ。
大野 中年じゃない~~中年じゃない~~
先崎 お腹が出てる~~お腹が出てる~~
中村 お前もだ~~お前もだ~~人のこと言えない~~言えない~~
大野 そうだ~~そうだ~~
かくして夜の新宿の乱痴気騒ぎは続くのだが、一方その頃の森下はといえば―
森下、自宅でふとんにくるまり瞑想にふける。BGMはキャンディーズの『ハートのエースが出てこない』
(大野さんは、おそらく矢倉で来るだろうな。僕が先手番だと、どういう形になるんだろう。大野さんは、あまり中原先生のような5筋から動く指し方はしないんだっけな。やっぱり本格的な矢倉か。△6四角と出てくるやつかな。△7三銀かな・・・いや、もしかしたら振り飛車でくるのかなあ。でも大事な将棋だからな、やっぱり矢倉だろうな。ええと△6四角と出て、こうやってああやってああやってこうやって、ええとこうしてああしてこうしてああしてこうしてああしてか・・・3年前の島-森内戦というのは香車の位置がどっちだったかな。竜王戦はああなったのかなあ。浦野-島戦は少し先手が無理だったんだよなあ、あの形は後手も指せるんだよなあ。あ~~あ、こんな狭い所に男の一人暮らしは侘しいな。誰かいい人いないかな。そういえば先週会ったあの女の人、僕のファンだとか言ってたっけムフフ、フフフ)
注1:S―青春。外に塚田八段や櫛田四段が常連。たまに女流棋士も行くといわれる。
注2:大野さんの口癖。心にもない?
注3:石田八段や伊藤能三段もよく行くらしい。
注4:森下さんと羽生君が幹事。ちなみに前幹事は大野さん。
注5:大野さんの十八番。50回は聞いた。
つづく
—–
対局者の脳内に食い込んだ非常に素晴らしい観戦記。
森下卓六段(当時)が寝るときにキャンディーズの曲を聴いているというのが、とてもグッとくる。
明日も続きます。