大山康晴十五世名人の手術後のプレーオフ

将棋マガジン1992年5月号、河口俊彦六段(当時)の「対局日誌」より。

近代将棋1992年5月号より。

3月9日

 毎日の朝刊に出ていたが、大山が谷川を破った瞬間「あと七番勝てば名人だ」と叫んだ棋士がいたという。

 思い返せば、手術すると聞いた昨年秋は、せめて残留してもらいたい、であり、復帰して高橋、米長を連破したときは、プレーオフに持ち込めれば、が大方の願いであった。その奇跡が実現したら今度は名人にと言う。ファン(棋士もファンなのだ)の熱狂ぶりがうかがえるではないか。最終戦の翌日、私の家の電話は取材で鳴りっぱなしだった。

 しかし、数日おいて考えてみると、挑戦者になるには、高橋、南、谷川と順に倒さなければならない。うんざりするくらい、容易なことではないがともあれ、プレーオフの第1戦である。

午後3時

 人の顔色をうかがう、は人間的にいやらしいが、今の大山の場合、そうしたって、顔色を見てしまう。昔読んだ、アランの「幸福論」の書き出しは、人に顔色が悪いと言ってはいけない、であり、数十年それを守っているが、幸いなことに、この日の大山の顔色がよかった。

 高橋戦のときは、妙に白っぽく、谷川戦のときは、手術前に戻っていた。そして今日は、顔に赤味がさしている。

 谷川戦が終わったあと、玄関で二言三言立ち話をする機会があったが、疲れた様子もなく「日がたてばよくなるから」と言っていた。その通りになっていると思いたい。

 局面は、ここ数局とちょっと様子がちがって、大山が自分から動く気配を見せている。13図まで、後手がうまくさばいているかに見えるが、玉がうすく、▲5四銀の攻めがうるさい。

13図以下の指し手
△8六歩▲同歩△8七歩▲同銀△4六角▲7八金△5五金(14図)

 8筋から手をつけ、△4六角とさばく。歩切れの相手に歩を渡したくないが、ぜいたくばかり言っていられない。また、角をさばいたのは大きいが、反面▲2三飛成を残した。あれやこれや考えると、△8六歩以下は指しにくい、あるいは指したくない順なのだが、大山は決行した。そして△5五金と出た14図は、後手が指しやすくなっている。大局観の明るさはさすがというほかない。

午後7時

14図以下の指し手
▲8四角△7三金▲同角成△同玉▲6二歩△8一飛▲2三飛成△2二歩▲同竜△3三角(15図)

 ▲8四角と出て金を使わせるのは実戦的な指し方。玉をうすくしてから、▲6二歩を利かし、▲2三飛成と攻め合う。これで負けならしようがないというわけだ。

 大山は、待っていた、とばかり△2二歩から△3三角と応戦する。中原など、プロの評判は全員大山よしだった。

 それを聞いて対局室に入ると、大山は「あと何番も勝たなならん。たいへんだ」と笑った。

 なんだか以前の大山に戻ったようである。明らかに勝ちを意識している。△3三角と竜取りに打たれて考え込んでいる高橋は、それをどう聞いたか。

 大山はもう勝ったようなつもりになっているとか、早く終わらせようとしているとか、は絶対にない。大山という人は、そんな甘っちょろいことは考えない。しかし、たとえば谷川と指していたときとは、微妙に気持のありようがちがっていたと思われる。

15図以下の指し手
▲同竜△同桂▲5三歩△6二金▲4二角△8八歩▲同金△2八飛▲5二歩成△同銀▲7五歩△5三銀▲3三角成△6六金▲7八金打(16図)

 ▲2六竜と逃げるようでは、△4五歩で勝負にならない。竜を切って▲5三歩の叩きから▲4二角は、これしかない、という攻め手順だが、この瞬間、控え室では大山必勝の順が発見されていた。

 △2一飛▲5二歩成△2九飛成。

 ぐるり飛車を転回すれば、先手側は止めようがない。▲5二歩成なら△2九飛成で、先手玉はほとんど必至。対して後手陣は詰まない。

 もしこう指せば、大山の最大傑作が誕生していただろう。本局は幻の傑作というわけだ。

 △8八歩から△2八飛も一組の手順で、大山は有利と読んでいた。銀を渡せない先手側は攻め方が難しい。

 で、高橋は、▲7八金打と、穴熊特有の粘りに出た。意外なことにその16図は、互角に近くなっていたのである。

16図以下の指し手
△8五歩▲同歩△同飛▲8六歩△7五飛▲7六歩△同金▲8四銀(17図)

 これは見たこともない不思議な手順である。△8五同飛と走ったのには、一同唖然とした。

 △8五歩は判る。一本は筋、という手だ。▲同歩なら△8六歩▲同銀△8七歩▲同金右△7九角成が攻め筋だが、これは一手すきでないから不安。

 だから戻って、16図では△2九飛成だろうと予想していた。次に△7七桂打でお終いだが、▲5八桂という粘りがあって、後手勝ちともいえない。これを調べた大山は、

「いいはずと思ったが、角を渡すと▲5五角があって私がまずい」と言外に判断を誤っていたと認めた。

 手に困ってのことだろうが、それにしても△8五同飛は異常。「大駒は近づけて受けよ」の逆を行った。

 控え室で、武者野と、元奨励会の三村君が継ぎ盤を並べていたが、△8五同飛を見たとたん、すぐ実戦の▲8四銀までを並べた。三村君が「いい筋ですねえ」と感心すると、「私のようなヘボ棋士でも、このくらいの手はすぐ見える。高道ちゃんなら、もっといい手を発見するかもしれない。もう逆転です」武者野は胸を張った。大山が見落とした▲8四銀をすぐ当てたのだから、威張る値打ちはある。

17図以下の指し手
△6三玉▲7五銀△同歩▲6四歩△同玉▲7六銀△同歩▲8四飛△5五玉▲5八桂△同飛成▲6七銀△8七歩▲4四馬△同銀▲5四金△4五玉▲4四金△3五玉▲3六銀△2六玉▲5八銀△8八歩成▲同金△3七角成▲1六飛(18図)  
まで、高橋九段の勝ち

 飛車を取られてはいけない。三村君ともどもがっかりしてしまった。

 そんなわけで、以下の解説は省かせていただくが、大山の執念も相当なもので、王様が中段をさまよいながら、再逆転と思わせる場面もないではなかった。

 なかんずく、最後の△3七角成は、勢いよく指されたが、▲1六飛で一手詰み。象徴的とも思える投了場面が現れた。

 局後の感想戦で、△2一飛の手があったがと訊かれて大山は「知っていたけど、▲6四銀△同玉▲5二歩成で負けと読んだ」そう答え、しばらく盤面を眺め「そうか、▲6四銀に△8三玉と逃げればよかったのか」王様をポンとそこに置いたが、残念、という様子でもなかった。

 感想戦が終わったのは、ちょうど午前0時だった。

 これで、一区切りついた。なんだか力が抜けるような気がしたものである。

 繰り返し書いたことだが、大山こそ、将棋を指すために生まれた男、である。生きていることは将棋を指すことであり、将棋を指さなければ生きている価値がない、というくらいのものだ。だから、手術直前、直後といえども、坐れるかぎり将棋を指すのは当然、と大山は思っていただろう。

 そうはいっても、対局という重労働が、病後の身体によいはずがない。

 △8五同飛は、魔がさした、というより、もう休め、の神の配慮だったかもしれない。

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大山康晴十五世名人は、前年12月5日に手術、暮れに退院、そして、

  • 1月20日 棋聖戦(復帰第1戦、対勝浦修九段)●
  • 1月28日 A級順位戦7回戦(対高橋道雄九段)◯
  • 2月5日 竜王戦1組(対石田和雄八段)◯
  • 2月12日 A級順位戦(対米長邦雄九段)◯
  • 3月2日 A級順位戦(対谷川浩司四冠)◯

という快進撃。

A級順位戦最終局、大山十五世名人は谷川浩司四冠(当時)に勝って、プレーオフ進出を決めている。(4人によるプレーオフ)

この最終局の終盤で指された▲6七金は、いかにも大山十五世名人らしい、伝説的な一手となっている。

将棋連盟の一番長い日

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17図の▲8四銀を△同玉と取ると、▲7六銀△同飛▲8五銀で後手敗勢となる。

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「△8五同飛は、魔がさした、というより、もう休め、の神の配慮だったかもしれない」

とても心を打つ文章だが、大山十五世名人はこの年の7月26日に亡くなる。

大山十五世名人にとっては、休まなくて良いから名人戦で指したかった、という気持ちだったろう。そのような配慮など余計だと。