筋を貫き通した一人の関西棋士のとても貴重なインタビュー。
将棋世界1996年6月号、鈴木輝彦七段(当時)の「棋士それぞれの地平 高島弘光八段 筋を通して生きる」より。
この連載の人選は編集部から一任されている。関東の棋士が4人続いたところで、そろそろ関西からも、と考えていたら、突然ある棋士の名前が浮かんできた。きたのはいいけど、その方のインタビュー記事は見たことがない。やはり、どこかインタビューしづらいところがあるのかもしれない、と思ったりもした。
しかし、そうであるならある程、話を伺ってみたいと強く思ったのも事実である。人の噂やイメージだけで人を判断するのは間違いの元であり、ロクな事がない、というのが私の人生観である。
お叱りを覚悟で書けば、「近寄り難い」「気むずかしい」というのが関東の私達年代のイメージである。あるいは、先輩から先送りされた印象であるかもしれない。
ところが、2年前のある出来事で、私の印象は一変して、「この先生は大変な人情家だな」と思うに至っている。
この手の話は、誰かにしゃべったり書いたりするべきではないが、高島先生の人間性を確かに表していると思うのでここに書かせて頂く。
その日はテレビの解説で、高島先生は対局者だった。終わって昼食を共にした時に、私が「津村先生が亡くなりました」と今朝知った訃報を話した。
対局後の興奮冷めやらぬ時間だったが、先生は「え、それ残念なことをした」と絶句した後、テーブルの下に持ってきたサイフから1万円札を手早く引き抜き、「急だから袋がないけど、届けておいといて」と私に渡した。
長年、そんな場面を数多く見ているが、その自然さには感動を覚えてしまった。関東、関西と離れていて、それほど親しいとは思えないけれど、棋士仲間に対する情が行動となって表れたのだろう。
しかも、打算や計算といった物が全くなく、よほど清廉に人生を生きてこないと、こうはならないと思う。
クラスは関係ないが、当時は先生もC2に落ちたばかりだった。そして、自分がC2に落ちても同じことが出来るか、と考えざるをえなかった。否、今出来るかと問われても自信がない。人間はいざという時にその人の本質が表れ見えてくるのではないだろうか。
不滅の13連勝
鈴木 お久しぶりです。前には何度か順位戦の後に飲みましたが。
高島 2年振りやな。テレビの時や。
鈴木 今日は訊きにくいことを訊くかもしれませんが、よろしくお願いします。
高島 ええよ。何でも書いてくれ。ただ、関西のことは活字にでけんことが多いから、その辺はよろしくな(笑)。
鈴木 先生はいくつで奨励会に入ったんですか。
高島 昭和29年12歳の時。父親の弟の高島一岐代叔父さんに入門してね。
鈴木 親子はありますが、親戚はめずらしいですね。入門してからはどうでしたか。
高島 先生はクセのある人で大変だった。もっとも、関西の棋士は皆似たようなもので、松浦さん(卓造八段)、本間さん(爽悦八段)、岡崎さん(史明八段)、いろんな人がおった。
鈴木 師匠が叔父さんですからね。
高島 やっぱり他人の方がいいね。でも将棋は13歳で初段になってね、叔父さんの血を引いたのかもしれんね。
鈴木 それは大変な早さです。関西ではエリートだったんですね。
高島 16で三段で、少し足踏みしてしまったがね。
鈴木 上がった三段リーグの全勝は昔の将棋世界で読みました。
高島 次点が3期続いて、7期目やった。東京に遠征して、米長、大内、桜井らみんな同期や。12連勝やったけど、わしは普通の心算やった。ただ、周りは「東西決戦に負けても四段にしたる」と言うとったりしてね(笑)。
鈴木 それはそうでしょう。負けても12勝1敗ですからね。相手はどなたですか。
高島 7勝5敗で北文さん(北村文男六段)やった。先輩には「7勝5敗でも上がるし、12連勝でも上がれんこともある」と言われて真剣に指したよ」
鈴木 東京の若手の印象はどうでしたか。錚々たるメンバーでしたが。
高島 強いと思ったよ。ただ、わしの敵ではなかったな(笑)。
―話を伺って、恐ろしい才能だったのだと感じた。おそらく、四段になるまでは将棋の苦労をそれ程しなかったのではないだろうか。確かに、年齢制限など眼中にない人がいるのである。ただし、関西特有の奨励会の苦労は人並みにした、というのは本当だと思う。
(つづく)
—–
昔、関西将棋会館が北畠にあった時代は、非常に個性の強い古豪・中堅棋士が揃っており、奨励会員は泣かされることが多かったという。
故・高島弘光八段は、その流れを引き継ぐ最後の世代。
近代将棋1989年6月号、故・原田泰夫九段の「名棋士の想い出 熊谷達人八段のこと」より。
関西在住の明治、大正生まれの先輩は個性が強烈で負けず嫌い、先輩と後輩のけじめのつけ方が凄かった。
どうしてワシに挨拶せんのか。盤、駒、駒台をきちんと磨いてあるんか。ワシの残り時間はなんぼや。なにをぐずぐずしてるんか。
後輩に指導しているのか、怒っているのか関西辯の味を理解できないこともあった。
かん高い声の岡崎、本間両八段(共に理事)、棒銀戦法開拓と対振り飛車に8六歩-8七玉型「松浦美濃」創案の松浦八段は眠るまでウイスキーを飲みながら睨みをきかしていた。
時には高僧の如く時には世界一の大言壮語で笑わせる灘九段、彼は昭和生まれで発のA級八段「銀立ち矢倉」はワシの発明とお得意であった。
根は善人だが口が悪い大野九段「おい、熊、お前は外交だけはうまいよな。おい、原田、お前は熊とミナミへ車を飛ばすんか、ワシも一緒じゃ具合悪いんか。おい、馬鹿、早う返事せんか」こんな調子で話しがまとまり熊谷、大野、原田の三人で梯子酒が何度かあった。
—–
原田泰夫九段は、そういう個性派揃いの関西棋界にあって、故・熊谷達人九段が非常に紳士的で、理事としても事務管理・経営管理能力に優れていたと書いている。
田中魁秀九段はNHK将棋講座2013年3月号の「棋士道」で、師匠の故・本間爽悦八段との関係は良好ではなかったこと、「私はうちの先生からさんざん怒られたから、よほどのことがない限り、自分の弟子には怒らへん」と理不尽な怒り方をする師匠を反面教師にしたこと、などを語っている。
現在の関西棋界は、厳しさも持ちながら、非常に家庭的な雰囲気に生まれ変わっている。
このような関西棋界の雰囲気の変化は、内藤國雄九段、有吉道夫九段の頃、そして谷川浩司九段の登場が大きかったのだと思う。
故・高島弘光八段は、将棋に関しては筋を貫き通す硬骨派。
このインタビューは、鈴木輝彦七段(当時)の「棋士それぞれの地平」シリーズの中でも、トップクラスの内容だと思う。
明日もお楽しみにお待ちください。