1992年の先崎学五段(当時)の著書「一葉の写真」に収録されている”戦いすんで日が暮れて”は、1990年の第3期竜王戦で羽生善治竜王が谷川浩司王位・王座に敗れて失冠した前後の出来事が綴られた、涙が出てしまうほどの名エッセイで、過去のブログ記事でも取り上げている。
今日は、ラスト近くで先崎学五段(当時)が寝たあと、何が起きていたか、というのがテーマ。
近代将棋1991年2月号、炬口勝弘さんの「フォト・エッセイ 竜王戦管見」より。
炬口さんの文章と先崎五段の文章の二元中継的にお伝えします。
(青字が炬口さんの文章、赤字が先崎五段の文章)
(先崎五段の文章)
竜王戦が終わった。
酒が苦い。目の前には最高級山形牛のしゃぶしゃぶ鍋があるが、肉などは食う気分になれない。もちろん対局者は最上席。こちらは飛び入りなので末席である。しかし両対局者を窺ったとき、表情に大差があることは、だれから見ても一目瞭然だった。
谷川さんの顔は、子供のような顔だった。誤解されるといけないので説明すると、オール5を貰って、家までスキップでもしながら帰るときの子供の顔だった。鍋は熱く、ときに顔から汗が滴り落ちたが、その汗は、相手をKOしたボクサーやウイニングパットをしずめたゴルファーがみせるすがすがしい汗だった。
羽生は、顔面神経痛になっていた。
愛想笑いを浮かべているものの、慰めともつかない言葉をかけられるたびに(これは彼の癖なのだが)、顔がゆがんだ。
少し腹が立った。ポーカーの大勝負で一文無しになった男に「惜しかったね」といってなんになるのか。最愛の恋人を奪われた男に、初対面の奴が「女なんて星の数ほど・・・」といってどうなるのか。しかも奪った恋敵がすぐそばにいるのだ。
みかねたので「こっちで飲もう」といって小林さん(健二八段)、杉本君(昌隆四段)と一緒に飲んだ。
(炬口さんの文章)
僕は小林(健)八段と並んで大広間の隅の方で飲んでいた。他愛ない話をしていた。ところが宴半ばに羽生がやって来て、「いつフランクフルトから帰ったんですか?」と言ってお酌までしてくれたのには、正直恐縮してしまった。なんだか息子に注いで貰っているような気になってしまった。こちらこそ席をたち「お疲れさんでした」とビールでも注ぎに行くべきだったかもしれない。
(先崎五段の文章)
小一時間がたち、酒もよくまわったところで、今からゲームでもしようということになって、前記の二人と、今しがたまで控室となっていた部屋に移った。まだ”偉いさん”も大勢いたのだろうが、そんなことは関係ない。さっそく四人で、まったく頭を使わないゲーム(チンチロリンではない)が始まった。僕はウイスキーをロックであおっていた。しばらくすると谷川さんが、隣の部屋で島さんや塚田さんとモノポリーをやっているという情報が入ってきた。ちぇっ、おもしろくねえや。どうせ「おめでとうございます」「ありがとうございます」なんていいながら酒も飲まずにやってんだろう。僕は、すでにしてアブナクなっていた。
(炬口さんの文章)
宴の途中で立ち会いの関根茂九段に誘われ、ホテルのカラオケスナックに行った。
竜王戦のせいで、「歩」など歌うお客さんもいた。(僕は「あばれ駒」を歌った)
「どうも気にいらないな。どうして将棋というと、こういう絵になるのかな」
ブラウン管には博徒の立ち廻りの絵が映っていた。農林省のお役人からプロになった温厚紳士の九段にとっては、確かに耐えられない絵だったに違いない。
「将棋指しも変わったね。私なんかも、いつの間にか四番目に古い人間になってしまいましたよ」
ホテルの美人女将(専務)も美声を聞かせてくれた。
(先崎五段の文章)
それからどのくらいたったのだろうか。もう日付も変わったころに、飽きたので麻雀をやろう、ということになり、麻雀が始まった。羽生はこわばった顔をいつもの顔に戻して、覚えたての麻雀を楽しんでいた。
(炬口さんの文章)
夜も更け、控え室に行くとそこは、すっかり娯楽室に一変していた。谷川を囲んでモノポリー。羽生を囲んで麻雀。
そしてやがてチンチロリンまで始まった。S七段が、フロントから麻雀セットを借り、サイコロだけ抜いてK八段と始めたのである。
麻雀もモノポリーもできない無趣味な僕はサイコロ振りぐらいはと、誘われるままに加わった。が、それが大ケガのもとだった。碁石二十個(一個千円)貰って始めたが、ものの十分も経たぬうちにたちまちなくなってしまった。
「どうぞどうぞ。お貸ししますよ」
Sさんはにこやかにすすめてくれる。十個借り、そしてまた十個・・・
「いいんですよ、どうぞ。たまたまいま僕がついているだけですから。勝負はこれからです」。まるでサラ金地獄だ。
「A級復帰を狙う人にはかないません。私など、A級棋士に比べたら、奨励会みたいなもんです」
一人勝ちのSさんはあくまでニコヤカである。側のモノポリーや麻雀組のニヤニヤクスクス。Kさんがぼやく。
「この負けは谷川さんに回そう。僕は洞爺湖で、衛星放送の解説をやることになっていたんですから」
Kさんは、それでも常に大勝負を挑む。僕も遅ればせながら、このままではジリ貧になると悟り途中からKさんの真似をし始めたのだが、それがまたすべて裏目に出てしまった。
もう鉄火場だった。時刻は夜中の三時になっていた。僕は辞退し、帰りの電車代を残して放免してもらった。福沢諭吉の肖像画三昧とお別れして。
Sさんの弁舌、Kさんの優しげな顔にすっかりダマされたのだ。
さすがに勝負師だ。彼らはみな少年時代から鬼のような先輩に鍛え抜かれている。素人などは赤児の首をひねるに等しい!!
(先崎五段の文章)
(中略)
「この部屋にいるからには、この麻雀のトップ賞として十万円出してください」
といったかと思う。約四、五回このせりふを繰り返した。とにかく、僕は、尊敬してやまない谷川浩司先生にカランデシマッタのである。ああ、畏れ多い。
日ごろならば、羽生もちゃちゃを入れるところだが、彼は、麻雀に没頭しているのか、それとも不機嫌なのか「ロン、ポン、チー」以外の言葉を発しない。
僕は、谷川さんよりも、その親友の塚田さんに場の雰囲気を察してもらおうと思って(このあたりが酔っ払いの自己中心的なところだ)カランダのであるが、一同ニコニコして麻雀を見ながら女の話なぞしている。僕は、日ごろから酒を飲みすぎると”明るくカラム”癖を持つので、狼少年になっていたのかも知れない。
その後は記憶がない。僕の記憶がなくなるのが早かったか、谷川さんがいなくなるのが早かったか、とにかく、その日はそれで終わった。
朝、起きると天井が回っていた。羽生が横に寝ていたので羽生の部屋だとわかった。布団を敷いた覚えがないので、もしかしたら敷いてくれたのかもしれない。
ヒドイ二日酔いなのでとにかく風呂につかることにした。部屋を出ようとすると、玄関に、朝刊が置いてあった。
もちろん一面には「谷川奪取」の記事がある。僕は、その新聞をそっと隠すと「一緒に行かないか」と声をかけた。
「一人で行って・・・」
といって羽生は足をバタバタさせた。今にして思えば、あのとき、枕カバーに涙の染みがあったかどうか、見ておけばよかったと後悔している。
(炬口さんの文章)
翌朝、ホテルの玄関で空港へ向かう両雄や関係者らを見送る。
(中略)
ロビーでコーヒーを飲んでいたら、Kさんもやって来た。
「いやー、いっときは◯万まで負けたんだけど、最後はなんとかチャラになりました」
僕が去って間もなく、麻雀が終わった羽生が加わって、チンチロリンはなんと明け方の五時まで続けられたというのであった。
「結局、われわれはチャラになって、炬口さんの負け分が、羽生さんのところに移ってお開きになったんです」
安心した。
一人になると米沢で途中下車して、山峡の一軒宿の温泉に遊んだ。
(以下略)
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炬口さんの文章の前半には名前や写真が出てきているので、S七段は島朗七段(当時)、K八段は小林健二八段(当時)であることがわかる。
羽生前竜王(当時)は、麻雀のあと(=先崎五段が寝たあと)、チンチロリンを小林健二八段、島朗七段と朝5時までやっていたということになる。
タイトルを失った夜、眠るに眠れなかったのだろう。
「炬口さんの負け分が、羽生さんのところに移ってお開きになったんです」は、正確な意味は分からないが、後から参加した羽生前竜王が一人勝ちあるいはチャラとなり、炬口さんの負け分を羽生前竜王が肩代わりしてくれた、ということなのだと思われる。