近代将棋1991年12月号、「若手棋士インタビュー 深浦康市四段の巻 他力でも上がれば勝ち」より。
奨励会三段リーグの最終日。朝から三段リーグの部屋は緊張に包まれていた。28人が狭い二部屋で指すのだが、背中と背中がくっつきそうな混み方。
昇段争いもイモを洗うような混戦で、12勝4敗・・・深浦。11勝5敗・・・真田、豊川、近藤、中座、石掘、金沢。
トップの深浦は今期絶好調。12回戦(全18回戦)まで1敗で3敗の二位以下を大きく引き離し、当確と書かれていた。ところがどうしたことかその後3連敗。たちまち後の集団が追いついてきた。
深浦は今年19歳、新人王戦の方も三段ながら有力棋士を次々と倒し、(小林五段、丸山四段、郷田四段)準決勝まで進出している。最終日は2局とも勝ってスンナリ自力昇段かな。取材陣の間ではそんな話が出ていた。
ところが最終日の第1局、よもやと思われた鈴木戦で手痛い黒星をくった。負けたのは深浦ばかりではなかった。混同、中座、金沢が転んだ。相手はいずれも好調者ではない。プレッシャーがいかに凄いかが伝わってくる。
(これを勝てば、四段になれる・・・)
こう思うと雑念が入り手が伸びなくなるのだろう。
勝ったのは、真田、豊川、石掘。
第2局は午後2時から。深浦は4階大広間で出たばかりの「将棋世界」を一人で読んでいたが、誰も話しかける者はいない。
上位から真田-石掘、豊川-小川、深浦-三浦戦が昇級争いの対局で、カメラマンは執拗に昇級候補の顔を追う。
真田、豊川のみ自力。深浦、石掘の順に他力である。
深浦は取材陣が気になるのか、チラと視線が飛ぶ。
取材者の間で、ひそひそ話の会話。
「凄いですね。順位戦より凄いよ」
「そう。ヘタをすると明日がないからね」
深浦-三浦戦は居飛穴対振り飛車。ともに早指しで、一時間くらいで終わった。(深浦勝ち)二人は2階の研修室へ行った。上位の2戦待ちだ。
研修室へは入れ替わりに誰かが上の戦況を知らせに来る。これを深浦はどんな気持ちで聞いていたのだろう。
「1局目で負けたのでもう帰りたくなってしまいまして。実は諦めていました。真田さんも、豊川さんも勝つと思っていましたから。僕は他力というのは好きではないので考えないようにしていました」。
2局目はずいぶん早かったですね。
「もう開き直っているというか、諦めましたので、三浦君といつも指しているような感じで、バンバン指しちゃいました。そしたら相手にうっかりが出てあっけなく終わった。三浦君とは仲がいいので、じゃあ研修室が空いてるからあそこで待とうという感じで。そこへ神谷先生たちが上の状況を知らせてくれて。途中で”どうも石掘の方がいいよ”という情報を聞いて、これは、と望みを持ったことは確かです」
さきほど他力は嫌いとかいっていましたけど。
「ええ。でも上がれるとなれば別で、上がってしまえば勝ちですから。そのあと神谷先生が”もうどんなに強くても逆転できない”という話を聞き、職員の方が手続きに動き出したりするのを見て、これは本当なんだな、と思いました」
決まった瞬間は?
「ぼう、として、実感ないですね。将棋マガジン誌が打ち上げの席を設けて下さってその途中で実家に電話しました」
どなたが出ましたか。
「母が出ました。飲食店を経営しているので、仕事の最中でしたが喜んでくれて、すぐに父と替わって、その時はすぐに切って、あとからゆっくり掛けました」
電話はよく掛けるんですか。
「以前は家の方からちょいちょい掛かってきたんですが、成績を聞かれたりするし、けっこう気になるもので、あまり掛けないでくれって頼んだんです。そうも家族の声をあまり聞くとよくないみたいな気がしたもので」
勝負に里心がつくっていうところか。ところでプロ入りしてから東京へ出て来たんですか。
「地元(長崎県)の佐世保支部の方が花村先生と知り合いだったので、奨励会を受けて入門することにしました。小学6年の卒業間際に母と上京しまして、母方の親戚に中学の3年間だけという約束で置いてもらい、大宮から西日暮里の先生の道場まで毎週通いました。その年の12月に1回で試験に受かり、花村門下になったのです」
森下さんには教わったんですか。
「ええ。ちょうど森下先生が四段になったばかりのころで、よく平手で教えていただきました。花村先生にも平手で・・・」
中学卒業してからは、アパート住まい?
「はい。3年の約束でしたので、それからは家から仕送りと記録料などの収入で。でも三段になってからは、稽古が月に3回くらいはありましたし記録も採りましたので、仕送り分は全部貯金してやっていけました」
酒、麻雀はやらないんですね。
「ハイ、あまり遊ばないんで、やっていけたんだと思います」
十代の遊びたい盛りなのに、遊ばないで将棋一本とは、遊びを覚えた古手の奨励会員は苦しいはずだ。
奨励会三段は28人の大世帯だけど、これは強い上がる、というのはそうはたくさんいないんじゃないかな。
「こんなこといって悪いんですけど、ただ来ている、というような人もいますので。でもやる気を出せば皆一線の実力なので、常に怖いところです」
怖いといえば、今期の終盤3連敗はどういうふうに思っていますか。
「その時はショックもあって原因がつかめなかったんですが、今考えてみると、13回戦で金沢君と当たりましたが、あれが急所だった。その時まで1敗でしたので、金沢戦に勝てば、”当確”だという気持ちでいました。将棋は角換わりで受ける展開でしたがこの形はけっこう自信ありました。ところが一手バッタリで負け。続く2局目は飯塚戦でこれは延々秒読みが続く長丁場で、わけがわからなくなりました。まあ結局負けたんですけど、一分将棋までやったんだから、と自分にいいきかせて、納得したんです」
ところが次の14回戦でも。
「ええ、この日は大阪で2局。前の日から気合を入れて行ったんですが、1局目負けて3連敗。結局、金沢君(昇級ライバル)に負けて必要以上にガックリしたことが原因ではないかと・・・」
最終日も1局負けましたね。
「あれも前の日から気合を入れて。そういう時はよくないですね。結果が・・・。負けたあと感想戦をやったんですが、真田君と豊川さんの方に耳が向いているような感じで、ええ、雰囲気で助かったか負けたかがわかりますからね。自分の感想なんてうわの空でした」
ところで三段リーグに入ってからはいつも昇級の目があったそうですけど、どんな成績だったんですか。
「 1期目 11勝7敗
2期目 12勝6敗
3期目 10勝8敗
4期目 11勝7敗
5期目 13勝5敗=(昇段)」
なるほそ1期目から良かったんですね。
「スタートから6連勝しまして。これならスンナリ行けるかな、なんて甘く考えていたら、すぐやられて畠山兄弟が昇段しました。
2期目は丸山、郷田の二人が14勝4敗で駆け抜けて終わり。わずかに豊川さんが同点で頭ハネ。あとは離されました。
3期目は途中で駄目になっちゃって。
4期目は3連勝のスタートが3連敗くって、8勝4敗で目が残っていた時に藤井さん(現四段)にやられて」
これで晴れてプロ棋士ですが、順位戦参加はおあずけですね。
「ええ、でも三段になった時も半年待たされていますし、この時は辛かったです。一局もさせないんですから。今度は他の棋戦には出られますから。先日も森内さんと新人王戦で指せまして、嬉しかったです」
長い時間になるけど、それは?
「ええ、一番嬉しいですね。最近考える内容があるせいか、序盤でけっこう考えるんです。ですから長い将棋は楽しみにしています」
深浦さんは長い時間の将棋を楽しみだと何回もいった。研究熱心で遊びを覚えない若手が、長時間楽しむんだから、ベテランは辛いものがあるだろう。
奨励会時代の成績も抜群だし、これは伸びる素材だろう。ただ精神的に崩れることがあるのでそこを直していきたいと語っていた。
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順調に四段に上がった深浦康市三段(当時)でさえ、このようにいろいろと悩んだ。
様々なドラマが生まれる三段リーグ。
この頃の深浦康市三段は、超ストイック。
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近代将棋の同じ号の奨励会コーナーには次のように書かれている。
1局目を負けて他力にまで落ちた深浦は、幹事席の前で将棋雑誌をパラパラとめくっていたが目がうつろで文字が目に入っていないのが良く分かり痛々しかった。豊川は、近くにある国立競技場の芝生の上であお向けになり空をぼんやりとながめていたらしい。
(中略)
2局目、最初に深浦が勝ち名乗りを上げた。続いて豊川が。まず一つめを豊川が手に入れた。真田、石掘戦は、双方秒読みの大熱戦。だが、豊川の昇段を知った石堀には勝っても昇段の目はない。実に、深浦-三浦戦が終わって約2時間後、真田が駒台に手を乗せた。形成いかんともしがたい将棋を最後の最後まで投げずに指し続けた真田の心中察して余りあるものがある。又、その2時間もの間待ち続けた深浦の気持ちの動き、相当痛々しく辛いものがあったであろう。
2時間。東京から仙台へ行く時の新幹線に乗っている間の時間と同じと考えると、かなり長い。
深浦康市三段の頭の中には、いろいろな思いが去来したことだろう。
そして、その間、一緒にいた三浦弘行三段(当時)。
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三浦弘行三段はこの日は2連敗で、通算7勝11敗の成績。1期目の三段リーグだった。
2期目の三浦三段は8勝10敗。
そして3期目が13勝5敗で、四段に昇段する。
三段リーグで勝てなかった時に、自分が「羽生」だったら簡単に抜けれるのではないかと考え、羽生将棋を研究し真似したら勝てるようになった三浦三段。
効果は非常に短期間のうちに現れたということがわかる。
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1991年9月5日、第9回三段リーグ最終日、打ち上げの席での深浦康市三段(当時)と豊川孝弘三段(当時)。将棋マガジン1991年11月号より、撮影は弦巻勝さん。