花村一門物語

吉田、池田、野本、関口、武者野、森下、深浦、窪田と続く、故・花村元司九段一門。

近代将棋1994年7月号、武者野勝巳六段(当時)の「マリオ六段の棋界奔走記」より。

 少し自己紹介を交えた思い出話をさせてください。昨今はアマ四段の実力がないと小学生名人のベスト8には残れないというのですから、かつてのチャイルドブランドを頂点とした、子供達の棋力向上には目を見張るものがありますが、マリオが中学を卒業した昭和40年代には、中学生で有段者というだけでも希少な存在で、全国的にもめずらしがられたものでした。

 「東海の鬼」「駒落ち名人」と呼ばれた花村元司八段が群馬の田舎に指導に来るということで、このイベントの世話役からマリオ少年に声が掛かりました。こうして実現した師匠との初手合いは飛車落ち。後に雑誌の企画で奨励会の二段を飛車香落ちで負かしてしまう鬼の花村ですから、今考えてみればマリオ二段としては無謀な手合いで、結果は書くまでもないことなのですが、八段から局後「早指しだし中終盤の指し手がはつらつとしている。序盤は勉強するだけでうまくなるから大丈夫、大いに楽しみな存在だ」と過分の褒め言葉を戴き、さらに世話役を通して「その気があるのなら奨励会に入る手伝いをしてあげよう」とも言われたのでした。

 しかし母マリオの反応は「いまどき高校も行かないで将棋の修行だけというのはどうも・・・」と冷淡。父マリオも「高校チャンピオンとか、県名人とかになったのなら才能を認めるということで、喜んで送り出してやれるけどねえ・・・」とかさにかかってきます。

 当時中学の生徒会長で「僕は東大の経済学部を出て家を継ぎ、お父さんの八百屋を日本一のチェーン店にしてみせる」なんて孝行息子が突然、「将棋指しになりたい」なんて言い出したのですから、このような反応を示す方が当たり前で、こうして断固たる反対を表明すれば息子の夢もさめるというのが両親の読み筋なのです。ただ父マリオの唯一の誤算は、子の才能が父の想像をわずかに超えていたということで、数年後の『高校生の県名人誕生』という誇らしい新聞記事を見る父マリオの複雑な顔・・・こうしてマリオは、あの出会いから3年遅れて花村の門を叩いたのでした。

兄弟子

 マリオが入門したとき、兄弟子には吉田利勝七段、野本虎次七段、池田修一六段、関口勝男六段がおりました。当時吉田さんは王将リーグに入るなどの活躍を見せていた若手ホープ。野本さんと池田さんは新四段になったばかり。関口さんは三段リーグの優勝候補といった存在で、それぞれ兄弟子が一家をなした頃久しぶりに迎えた弟弟子だったせいか、それはよく将棋を教えてもらいました。

 一局百円の真剣でぽんぽんと早指し対局をするのですが、たちまち五百円、千円と取られてしまうのです。一番初めは「さすがに賭将棋で鳴らした花村の弟子だ。新参の弟弟子からもこうして金を巻き上げてしまうのか!」と驚いたのですが、やがて兄弟子はころあいをみて「こんなに弱くちゃ、俺の方は勉強にならない。もうやめ、飯だ飯を食いに行こう」と席を立ちます。こうして連れていってもらった先がなんとふぐ料理屋でした。

 「今日はお前からだいぶ巻き上げたからな。このままじゃ寝覚めが悪いから、その金でごちそうしてやろう。遠慮なく食えよ」の言葉で、生まれて初めて口にしたふぐちりのうまかったこと!今でも、あのとろりとした雑炊の舌触りは忘れることができません。

師匠との将棋

 こうした酒席で兄弟子たちが繰り返し話してくれたのは、師匠の恩を弟弟子に返しているんだという気持ちで、その果実をさらにまた後輩に引き継いでくれることが、師匠と一門への恩返しだというのです。

 当時のマリオは親が子の出世を願うのは、自分の老後に備えての保険なんじゃないかと頭でっかちに考えていたのですが、いま自分自身が不惑の年にさしかかり、子を持って振り返ってみると、なるほど子供を育てるという事業は愛情のみを原動力とする、まったく見返りを求めない行為であることを知りました。あえてわが子に希望があるとすれば、「一所懸命に生きて、幸せな家庭でよい子供たちを育てて欲しい」ということ。師の恩は弟子に親の恩は子にって、なんか師弟って親子の関係に似ていませんか?

 さて、皆さんは「将棋界の師匠というのは直接手を取って教えることはなく、師弟で指すのは入門のときだけ。もう一局指すとすれば、見込みがなくてやめさせるとき」という話を聞いたことがあるでしょう。確かに木村名人の時代はそうだったようなのですが、なにしろ花村は『東海の鬼』として真剣師で勇名を馳せたあと、つけ出し五段の試験に受かってプロ入りしたという異色の棋士。それまで定跡書なんか読んだことがなく、実戦一本で強くなってきたのですから、弟子を強くするためには将棋を指してやるに限る・・・とまあ、ありがたいことこの上ない師匠なのでした。

 手合いはいつも平手。マリオが高校を卒業して連盟の塾生に入るまでの数カ月でしたが、しばらく前まで雲上人だった現役バリバリのA級八段に百番近くも教えてもらったのです。しかも花村の序盤の拙さもあってたまに勝つものですから霊験あらたかで、奨励会入会後わずか半年にして二階級昇級。このとき「オレもこの世界でなんとかやっていけるな」 この自信が長くつらかった奨励会生活を支えてくれたのでした。

森下卓少年

 マリオが三段で不動の本命だったころ、花村が福岡県北九州市から森下卓という小学6年生を連れてきました。奨励会試験を受けるには、ちょっと背伸びが必要かなと思うような棋力だったのですが、見事合格。当時奨励会試験は11月に行われ、合否発表は12月だったのですが、善は急げとばかり冬休みの間に西日暮里の花村邸近くに引越しを済ませ、学校もわずか2ヵ月を残して東京の小学校に転校して、将棋修行にはもってこいの環境に身を置いたのでした。

 これからわずかあとにマリオが四段に昇進し、師匠の家に報告の挨拶に伺ったのですが、花村はちょうど森下卓少年と将棋を指しているところでした。特に用事のない日は、卓が学校から帰るとこうして将棋を教えてやるのだそうで、四段昇段報告のマリオを前に、卓を指さしてぬけぬけと「ようやくワシを超えるかもしれない弟子にめぐり会った」なんて言うんです。

 あのとき卓はまだ6級でしたから、利発ではあるものの将棋自体はまだどのようにも変わる粘土のような存在だったのですが、棋力が足りなくても合格する強運と、善は急げの素直さと熱心さに大成する脂質を見いだしたらしく、日課のようだった競輪場通いをやめて、A級八段が将棋を指すために弟子の帰りを待つ毎日なのですから、これはもう前代未聞の師弟関係と言うより他ありません。こうした薫陶は卓が奨励会を卒業するころまで続いたのですから、二人の対戦数は楽に千局を超えていると思います。

 ところで卓が注目を浴びるようになってから気になる記述を何度か目にしました。曰く「花村の持ち味は自由奔放な攻めに対し、森下の持ち味は手厚い受けだから、この師弟の将棋は互いに異質だ」というもの。一般のファンが「二人の将棋は似ていない」と言うのだったらマリオもほほえむだけですが、将棋を生業としているライターが「異質」のひと言ですませるのでは不見識の謗りは免れません。せめて深層に流れる思考の源に着目し。『同根の発想だが指し手の表現方法は正反対』くらいの言い回しを用いて欲しいものだと考えているのですが。

深浦と窪田

 卓が四段になる前後から、花村が西日暮里の将棋サロンで毎週土曜日に将棋教室を始めました。「知り合いがどうしても道場やりたいってんで、しかたなく応援だ」とその動機を語っていましたが、卓の順調な成長ぶりが、花村をして「もう一度弟子養成に力を入れてみようか」という気にさせたのでしょう。

 そんな中で特に花村が目を掛けていたのが、遠い茨城県取手市から毎週通ってくる窪田義行少年で、通い始めたころはアマ初段だった子供が半年後にはアマ五段で指すようになり、たちまち小学生名人戦で優勝してしまったのですから、これには師匠代の卓だってさぞ驚いたことでしょう。

 同じころ、長崎県佐世保市からの逸材深浦康市少年を迎えました。「卓の例もある。奨励会試験を受ける気があるのなら早めに上京しなさい」との花村の助言を受けて、小学校を卒業した直後に単身大宮の親戚を頼ってきたのです。

 改めて書いておきますが、中学生になりたての深浦が上京したのは奨励会に受かったからではありません。年端も行かぬ子を将棋の修行をさせるために九州から呼び寄せて、奨励会にすら合格できないという悲惨な状況だって想像されるんです。事実東京に来たばかりの深浦は、マリオが指してみた感触ではやはり初段くらいの棋力でしたから、とてもこの年の秋に奨励会試験に受かるとは考えられなかったのですが、しかし師匠にとっては既定の事実だったのでしょう。深浦、窪田の弟弟子たちはこの年の秋から、当たり前のような顔をして奨励会員になりました。

突然の逝去

 元旦は門下生が家族を伴って師匠宅に年始に伺うのが恒例となっており、花村一門にとっては第二の萌芽期とでもいうようなころ、迎えたその年の正月は花村家の部屋という部屋いっぱいに、兄弟子や新弟子その子供たちまで集まって、それはそれは賑わいだときを過ごしたのですが、このときすでにガン細胞が師匠の肺の大半を犯していたとは!マリオほか門下生にとって、夢想だにしない不幸なことでした。

 3月下旬、風邪の治療で通院したはずの師匠が「結核の疑い」ということで緊急入院。その後表向きの病名は「肺真菌症」と変わりましたが、それまで病気一つせぬ丈夫な身体であっただけにガンの進行は想像以上に早く、6月上旬全国の将棋ファンに惜しまれつつ帰らぬ人となりました。

 この日から数カ月、マリオも胸にポッカリ穴の空いたような虚しい思いで日々を送っていましたが、ふと雑誌を見ると奨励会員の弟弟子たちはタドンの山ばかり生産しているではありませんか。師匠の恩を後輩に何も返していないのはマリオだけじゃないと、この月から慣れない自宅教室なんかをやって弟子たちの特訓を始めたのですが、いやはや「子を持って知る親の恩」とはこのこと、毎週わずか一日といえど、子供たちの生活や修行態度に目を配りながら、将棋の才能を十二分に引き出してやるなどマリオにとっては分に過ぎることで、いまさらに師匠の偉大さを実感するだけでした。

 まず年上の深浦が四段になり、この春に窪田も新四段となって奨励会を卒業しました。急きょ買って出た師匠代行とすればこれにまさる幸せはなく、いまマリオはずーんと重かった肩の荷を降ろした心地があいています。

 幸い深浦は四段にしてすでに、全日本プロトーナメント、早指し新鋭戦、、早指し選手権戦と3棋戦にも優勝し、棋風も似ていることから「森下二世」の声も挙がっているようですし、ずっと深浦をライバル視していた窪田も四間飛車一本の豪快な将棋で、手強い先輩を負かして公式戦3連勝と上々のスタートを飾ったよう。ひとまずは折れかかった花村一門の接ぎ木に成功、少しは師匠の恩を返せたのでしょうか。

花村一門旅行会

 師匠の未亡人が「この家には花村の思い出がありすぎてつらい」と神奈川県茅ヶ崎市に引っ越してからは、例の元旦顔合わせ会は開かれなくなりましたが、寂しいねという声が聞かれ、いつしか奥さんを招待しての花村一門旅行会が行われるようになりました。

 時期は順位戦が終わってほっと一息の4月が恒例。年下のマリオが長い間幹事役だったのですが、今年は森下新八段が幹事となって4月23日から二泊三日で、山形県天童温泉の人間将棋を見に行くことになりました。

 写真は竜王戦七番勝負が行われる滝の湯ホテル」の中庭でのスナップ。一番右から窪田義行四段、深浦康市四段、野本虎次七段、森下卓八段、花村京子夫人、関口勝男六段、マリオ六段という順番。カメラマンは人間将棋のイベントに参加する予定で同席した中井広恵女流名人ですから、こんな贅沢もありますまい。

 これに先だって行われた4月15日の将棋大賞表彰式と免状授与式で、花村一門は4人も表彰を受けたんです。直言が過ぎる窪田新四段は集まった記者に「花村一門の三羽ガラスと呼ばれるように頑張りたい」と挨拶していたそうですが、おい窪田君!誰か大事な人をお忘れなのではありませんか。

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今年の5月28日に引退をした武者野勝巳七段は、顔も体形もマリオに似ているので、マリオと呼ばれるようになった。

花村一門の中興の祖という位置付けになるのかもしれない。

弟子には、関矢寛之三段とNHK杯将棋トーナメントの記録係としておなじみの甲斐日向三段。

19歳と20歳なのでこれからが楽しみだ。

それにしても、花村元司八段(当時)の「その気があるのなら奨励会に入る手伝いをしてあげよう」。

なんとドキドキする言葉なのだろう。

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