将棋世界1992年2月号、神吉宏充五段(当時)の「対局室25時 大阪」より。
昼休後の棋士室は満員盛況。南棋聖、木下(晃)六段、小阪六段、松浦六段、村山六段、有森六段、加瀬五段、伊藤五段、阿部五段・・・。そこに井上六段が現れた。どうも表情が浮かない。
「お、慶太どないしたん。ははあ、昨日将棋負けて元気ないねんなあ」
「はあ、それもありますけど・・・実は交通事故起こしましてねえ。いえ、昨日の対局終わって帰り、タクシーに乗ったんですわ。そしたら交差点で横からドカーンとぶつけられて」
「びっくりしたやろう」
「へえ、そりゃもう。で、そのぶつけた相手の車っちゅうのがまたアルファロメオとかいう外車で」
「コワイ人やったんかいな」
「いえ、若い兄ちゃんで。しかし外車でしかも新車やったからか、もの凄い剣幕で飛び出してきて怒鳴っとるんですわ。ほんならごっついでっせ。タクシーの運ちゃんも負けずに怒鳴り返してますねん。迫力あったわ」
「?おかしいなあ。どっちかが悪いんやから、両方とも怒鳴るのは変やろ」
「あっちが赤信号の点滅で、こっちが黄色の点滅で、それに両方ともスピード出しとったから、どっちも悪いと言えば悪いんでしょうけど。兄ちゃんの方は酒も飲んでまして」
「そりゃあ向こうの方が悪いなあ。それでケガなかったんかいな、ムチウチとか。あとで大変やで」
「そない思て痛いとこないか探したんですけどね、どうも腰が痛いんですわ」
「対局の時も腰が痛い言うとるやないか」と小阪が突っ込む。
「わしも対局の後やからそれでかなと思ったんですけど、まあ言うとけと思て。すると兄ちゃんが『ええかげんなこと言うな』って怒りよるんですわ。なんでワシが・・・」
「結局どないなったん」
「へえ、それからすぐに警察が来まして、現場検証して帰ったんですけど。寒空の下で1時間も待たされて、えらいしんどかったですわ。そうそう、その兄ちゃん、ぶつけといてわしにも責任があるって言いよんねん」
「なんでや?」と棋士室にいた全員が不思議がる。
「急げ!スピード出して行けって言ったのと違うんか」と松浦。
「君が酒飲んどったからやろ」と木下(晃)。どちらも冗談だが慶太は真剣。
「わし何も言うてませんし、酒は確かに飲んどったですけど・・・客はええんでしょう?」
「その通り」
「で、あんたにも責任ある言われて、さすがにわしも怒りましたわ。すると相手は言い直しましたけど。しかし、タクシーの運ちゃんはしっかりしてまんなあ。警察が来るまで写真撮ったり、タイヤの跡残すようにスプレーかけたり・・・いやあプロですわ」
「そりゃそうや、そっちはそれでメシ食うとんねんから。慶太だけがアマチュアなんや」と小阪。
「将棋もよく勝ってたし、今年は井上の当たり年だったなあ」と松浦。二人とも井上が無事なのでちょっとからかっているのだ。
続けて松浦が「しかし惜しかったなあ。事故で不戦敗になっていれば、何人も喜んだヤツがいたのに」とタイミングよく切り出した。すかさず村山「井上先生、1回だけでいいんです。負けて下さい」と井上にすがる。
井上は笑いながらも目は真剣に「アンタはまだ若い。それに不戦敗やのうて、ひとつ間違うたらもうちょっとで死ぬとこやったんで」
「お、惜しい」
(以下略)
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この期の順位戦(C級1組)のこの頃、村山聖六段(8位)7勝0敗、井上慶太六段(9位)7勝0敗、森内俊之五段(21位)8勝0敗と、3人が競り合っていた。
3人とも直接対決はなく、とにかく勝ちを続けなければ昇級が困難という状況。
村山聖六段の「井上先生、1回だけでいいんです。負けて下さい」という言葉も、非常にタイムリーだったわけだ。
最終的には、村山聖六段と森内俊之五段が10勝0敗で昇級。井上六段は9勝1敗で惜しくも昇級を逃す。
井上慶太六段は、翌々年の1993年度、10勝0敗でB級2組に昇級。
そして、1995年度と1996年度に連続昇級を果たして、一気にA級八段となる。
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明日からNHK将棋フォーカスで、井上慶太九段の講座「井上慶太の居飛車はおもしろい!」が始まる。
NHK将棋講座は、昨年度が、
・野月浩貴のイチ押し初級アカデミー
・藤井猛の“初出し”攻め方フォーラム
・木村一基の先読み受け方エクササイズ
・屋敷伸之のバランスで勝つ!終盤アプローチ
と、初級者向けに「基礎」、「攻め」、「受け」、「終盤」を体系的に学べるような編成となっていた。
そして今年度が、
・鈴木大介の振り飛車のススメ
・井上慶太の居飛車はおもしろい!
と、昨年度の講座で学んだことを踏まえて、戦法(振り飛車、居飛車)を習得することができる流れとなっている。
「井上慶太の居飛車はおもしろい!」は、相手がどのような戦法でやってきても棒銀で勝つ、ことをメインテーマとした講座。
将棋女子の方には居飛車党も多いが、大いに参考になるのではないだろうか。