井上慶太六段(当時)の結婚

将棋世界1992年3月号、神吉宏充五段(当時)の「対局室25時 大阪」より。

 そうそう、話は変わるが、井上六段が4月に結婚する。驚くほどの電撃ぶりで、この事実を知っている棋士はほとんどいなかった。お相手は(おっと、それ以上はまだ書かんとって下さい・井上)う、今は本人たっての希望で公表できないが、22歳の素敵なお嬢さんである。すでに新居も購入した。それが私の出身地の加古川というのだから面白い。

 とにかく来月、来月は全てを話していいと言う井上先生だから、ご期待下さい。それではまたまた先を越された谷川竜王のコメントをどうぞ。

 「もう慣れました」

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将棋世界1992年4月号、神吉宏充五段(当時)の「対局室25時 大阪」より。

 その兄弟子にお先とばかりに結婚を決めたのが井上慶太六段。前号でも書いたので、多少はおわかり頂けたと思うが、ようやく名前を出してもいいと慶太から許しが出た。お相手は奥田恵美さん。将棋連盟関西本部の職員をなさっている22歳の可愛い女性で、2年前から交際が続いていた。私が気づいたのは1年前。最終電車でこのカップルを目撃したという情報が入った。その時の様子は慶太は椅子にドッカと腰かけ、口をパックリ開けて寝るその横にそっと彼女がいたという。もちろん次の日には慶太に電話した。すると「か、神吉先生!靴を舐めろと言われたら舐めさしてもらいます。だからこの事は御内密に、へへー」と平身低頭の極み。よっぽど目撃されたのがまずかったのか、それともじっくり愛を育てたかったのか・・・結婚が決まってやっとわかった気がする。

 「今やから話しますけど、2年前最初にわしが須磨浦公園に誘ったんですわ。それからちょくちょくデートしまして。昨年の11月にはトントン拍子で話が進んで婚約ですわ。で、4月5日に結婚して北海道へ新婚旅行。これで順位戦も勝っとったら何も言うことなしやったんですけど・・・そうそう、新居ですけどマンションの応募したら当たりまして。それがまたもう」

 慶太の新居は大阪の将棋会館からドーンと離れた兵庫県は加古川市。それも何と私の名字である西神吉町である。神吉という姓はこの辺りの出身で、戦国時代には神吉城があったのだ。私は東神吉町の出身で、新居とはほとんど目と鼻の先。

 「これにはさすがのわしもびっくりしましたわ。しかし決まったからはもうしょうがおまへん。神吉一族の仲間入りをさせてもらいます」とは順応性がある。

 「そろそろ引っ越しの準備もせなあかんので、たまに新居に行くんですけど、まあこれが夜中には道は電気一つしかなくて真っ暗・・・それに将棋会館まで片道1260円もかかるんでっせ!自転車も買わなあかんし、自転車置き場も探さなあかん。これまでといっぺんに生活が変わりそうですわ」

 神吉町の皆さん、ご無沙汰しております神吉です。慶太を見たらどうぞ声をかけてやって下さい。

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将棋世界1992年6月号、神吉宏充五段(当時)の「対局室25時 大阪」より。

 この1週間前、井上夫妻が新婚旅行の北海道から帰ってきた。4月5日の披露宴で最高の笑顔を見せていた二人だが、あっちこっち回ったせいか、疲労困憊の体。慶太曰く「いやあ、疲れましたわ。何ぶん、よう歩いたせいか腰が抜けまして・・・これからわしのこと井上ヌケタと呼んで下さい」

 そんな事言いながら、新居で楽しく過ごす二人が目に浮かぶ。

 そうそう、4月5日といえば披露宴のあと、谷川竜王をキープすることに成功した記念すべき一日。何故か。翌6日は彼の30の大台に乗る誕生日なのである。つまり30歳。ぶっちゃけた話「み・そ・じ」。

 こんな大事な日はひょっとして女性と過ごすのではないかという危惧があった私はむさくるしい男3人を配置して「帰りたい」と懇願する谷川大先生をスナックに軟禁した。そしてカウントダウンを始めて10秒後、午前0時を回る。日が変わった。おっと、お祝いの花がない。慶太の結婚式でもらった花を3本かき集め輪ゴムで束ねて「おめでとう!」

 お、谷川先生の表情が涙ぐんでいるように見える。そんなに嬉しいのだろうか。えらい喜ばれたもんやと思いつつ、彼の生涯の記念の一日は過ぎていくのであった・・・(ええ事した後は気持ちがええのう)。

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須磨浦公園は、神戸市が管理・運営する大きな公園で、一ノ谷の戦い(源義経の鵯越えで有名な戦い)が行われた地でもある。

後に能などの演目にもなっている、一ノ谷の戦いで17歳の若さで討たれた平敦盛の供養塔「敦盛塚」もこの公園内にある。

春は桜の名所。

井上慶太九段は独身時代、神戸市須磨区に住んでいた。

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井上慶太九段の愛弟子の一人である船江恒平五段は、加古川市立東神吉南小学校の出身で、まさしく神吉町。

船江恒平五段も先ごろ結婚をしている。

井上慶太六段の結婚は、将棋史的には、”棋士のまち 加古川”が誕生する第一歩でもあったと言える。

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以前、中野隆義さんからいただいたコメントも再掲しておきたい。(井上六段が結婚をした当時、中野さんは将棋世界編集部に勤務)

当時、関西将棋会館の女性職員は皆それぞれに感じのよい方ばかりでして、私めは関西に出張に行くのが楽しみでした。あ、千駄ヶ谷の方々も素敵でしたよー、と、念のため申し上げときますうー。ふう、さて気を取り直しまして、関西会館の女性職員の中で、全てのしゃべりの語尾がクルリと上がる方がいらっしゃいました。コレがまたその容姿と年齢にピッタリと合った雰囲気を醸し出していまして、そうですねえ、可憐さと可愛さをミックスさせたような感じですか。その方が井上流と結婚したと聞いたときは、ホントにもう井上の野郎めえと、あ、いえ、井上さんおめでとーと心より喜んだものでした。