桐谷広人七段の青春時代

将棋世界1992年2月号、奥山紅樹さんの「棋士に関する12章 第二章『失速』」より。

 「18歳までアマ強豪のいない田舎町で過ごしたハンディキャップは大きかった」と桐谷広人(六段・42歳)は青春を振り返る。

 奨励会の入会試験を受けたのは、広島・竹原高校を卒業した1968年春であった。青野照市(八段・38歳)、宮田利男(六段・39歳)が同期入会のメンバーである。が、青野・宮田とも当時15歳。高卒の桐谷とは3年の年齢差があった。

 桐谷が奨励会員となった年、2歳年上ですでに棋士となり、勝ちまくっている男がいた。中原誠(名人・44歳)である。よし、あの男におれも追いつこうと、桐谷は思った。が入会直後、桐谷少年はイヤというほどたたきつけられる。6局たたかって3連勝3連敗。

 年下の同期生は思ったより強かった。

 年下であるが数年先輩の田丸昇(八段・41歳)、真部一男は既に有段者。棋力が違いすぎて奨励会時代には対戦することすらなかった。

 「これは大変な世界に入ってしまったものだと・・・年を取ってスタートしたハンディは大きい。背筋に寒気が走るほどのプレッシャーを受けた」

 「と同時に、『はたして将棋は、人が一生かけて打ち込む価値があるのだろうか』の懐疑が、入会の直後からつきまとって・・・棋士への道に心底から誇りが持てない。そのことに何年も悩み続けました」

 初段のころ、お茶の水女子大の学園祭に遊びに行き、討論会に出席した。田丸昇もいっしょだった。自己紹介の時、田丸は「新聞紙上でただ一つ、活字がサカサに印刷されている欄の仕事をしています・・・」

 と言った。対局者と駒の活字半分が逆―将棋欄のことである。それを言う田丸の表情は誇りに満ち、楽しそうであった。桐谷はそんな田丸を意外に思った。

 棋士になれなきゃ恥だ、の意識。一方で、将棋は一生をかける値打ちがあるか?の疑問。二つの考えの間に揺れ、受け身で将棋を勉強していた時、一人の若い女性と出会った。

 「桐谷さん、どんなものでも人間が一事を一所懸命にやるのは立派なことよ。将棋には、男の人が生涯を打ち込む価値があるわ。だから、頑張って・・・」

 物静かに語られた言葉が、高圧電流のように桐谷を打った。

 「平凡な女性の、平凡なひとことが私に大きな転機をもたらしました・・・もし彼女の言葉に出会わなかったら、私の人生はどうなっていたか」

 桐谷の述懐である。

 桐谷はそれから心を入れかえて将棋にとりくむ。初段に2年余り低迷していたが、その言葉を聞いてから3ヵ月で二段そしてその3ヵ月後に三段に昇った。

 一期目で優勝した三段リーグは東西決戦で敗れて四段昇段を逃したものの、1975年四段に昇った。

 「私の失速は四段をゴールだと思ったことですね」と桐谷は反省する。

 その頃オイルショックの波をかぶり、広島県の実家の紙箱製造業が不振となっていた。

 桐谷は四段昇段と同時に、親に転職をすすめ、生活費の仕送りを申し出た。

 1、2年でカタがつくと思ったが、新しい仕事がなかなか軌道に乗らず仕送りは7年続いた。しかしその甲斐あって桐谷の父親(70歳)は、今も元気E社会保険労務士をしているという。

 四段昇段と同時に、原稿、稽古の依頼が殺到した。

 「それを断って勉強するか、仕事を引き受けるかが、一流棋士とそうでない棋士の違いですね」と桐谷は自らの反省を込めて振り返る。父親の仕事が軌道に乗った数年後、稽古先の証券業界のアマ棋客と親しくなり、株式投資に関心を持った。

 平均株価が上昇してい3年前までは順調だった。2年前株価の下落が始まった。発展している日本経済の株価がこんなに安くなるのはおかしいと大量に信用取引で買い下がった。気がつくと相場の泥沼の中にいた。

 筆者の見る所、信用取引は度が過ぎると人間を破壊していく。朝、目がさめると相場の動きが気になり、空売りするかいや、買うかと毎日がいそがしい・・・。将棋の方には当然のことながら、マイナスの影響をおよぼす。心がしだいにすさんでいったとしても不思議はない。

 そして、バブル経済がはじけ株式の大暴落が日本列島を走った。

 あらしが去ったいま、桐谷の耳奥に20代前半で聞いた、若い女性の声が響いている。 「将棋には、将棋には、男の人が生涯を打ち込む価値があるわ。だから、頑張って」

 桐谷は言う。

 「出来ればもう一度、将棋にひたる毎日を取り戻したい。結婚し、落ち着いた生活の中で将棋を勉強する・・・これが私にとっての夢ですね」

 ”失速”したとはいえ、桐谷の手元には、結婚して一家をかまえ、将棋を研究するだけの資産は残った。陰影に富んだ30代であったとも、自分の原点が「将棋」であることを確認するための、複雑な回り道であったとも言える。

 「昇級をするとか、新聞棋戦で勝って名を上げるとか・・・そういうのを、今の私は考えていません。余分な神経を使わずに将棋にひたる、充実感のある生活が出来ればいいなあ、がホンネ。将棋に戻る時がきました・・・」

 将棋という名のラセン階段をどこまでの昇り降りして一生を終える。それが棋士というものか。

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今年は桐谷広人七段がバラエティ番組で大ブレイクした年。

桐谷七段のほのぼのとした人柄と、若い頃から築きあげてきた株主優待生活が、見事にマッチした形となっている。

いろいろな切り口から棋士や将棋がマスコミで取り上げられるのは、非常に素晴らしいことだと思う。

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当時の日経平均株価は(円未満は切り捨て)、

1989年末 38,915円 前年比+29%
1990年末 23,848円 前年比-39%
1991年末 22,983円 前年比-4%
1992年末 16,924円 前年比-26%
1993年末 17,417円 前年比+3%.
1994年末 19,723円 前年比+13%

となっており、この記事(1991年末)が出た後、株価は急降下したことが分かる。

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話は変わるが、例えば株価が20%上昇した後に20%下落すると、元の株価に比べて4%のマイナス。

同様に、株価が20%下落した後に20%上昇すると、やはり元の株価に比べて4%のマイナス。

数学的には理解できるのだが、何か不思議な感じがする。

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