森下卓八段(当時)「この期に及んで、というのがいかにも羽生さんらしい」

将棋世界1999年10月号、巻頭グラビア「羽生善治、夏の陣第一弾はストレート防衛」より。

「終わってみれば、いつの間にか羽生さんが勝っている。強さを感じさせないぐらい強い」

 第4局終局後、大盤解説場で森下卓八段と前田祐司七段が口をそろえて言った。

 本シリーズを振り返ってみよう。開幕前の両者の状況はまったく対照的で、谷川は名人戦、棋聖戦、そしてこの王位戦と3連続でタイトル挑戦権を獲得し、22局17勝5敗の好成績。対する羽生は4月から王位戦に入るまで3ヵ月半でわずか3局で3連敗(そのうち2戦が対谷川)。

 また二人の通算成績は羽生の53勝39敗ながら、最近では谷川が11勝5敗と追い上げてきている。棋聖奪取の勢いから見て谷川乗りと見るのが自然だろう。本誌9月号で沼六段も、短期決戦では勢いで谷川、長くもつれれば実戦の勘が戻って羽生と予想していた。

 始まってみると羽生が横歩取り△8五飛戦法を表裏で制し、まずリード。3局目は▲3四飛に△3三桂と羽生が変化した。激しい応酬が続く中、谷川▲8五飛の好手に△7五金とやむなく飛車取りに金を手放す苦しい展開。

 しかし谷川は棋勢好転を感じたのかわずか1分で▲8四飛と逃げ、明快な勝ち筋を逃してしまった。その後千日手に持ち込む粘りがあるも踏み込めず、羽生3連勝。

 第4局は谷川得意の△8五飛戦法を再び用いるのか、との予想も始まってみれば、初手から▲7六歩△3四歩に▲6六歩とまた羽生が変化し、タイトル戦では非常に珍しい相振り飛車となった。

「この期に及んで、というのがいかにも羽生さんらしい」とは当日大盤解説役の森下八段。

 しかし力将棋でのびのび指すと思いきや、途中▲3七歩や▲8六飛と一転、渋い手が続き、谷川はすっかりペースを狂わされることになる。

「相振り飛車は予定でした」と羽生はやる気まんまんなのである。

 後手番としてまったく不満のない駒組みでありながら、うまくいったという安心感と思わぬ3連敗のあせりからか、急所の仕掛けで谷川は読みの踏み込みを欠いた。以下はずるずると進み、終わってみれば羽生の勝利。「指し手うんぬんと言うよりも気持ちの問題」と森下八段は言う。

 第4局と同様第3局でも、谷川は感想戦でほとんど何もしゃべらなかったという。

 じりじりと揺さぶられ、谷川は自分のペースをつかめないままシリーズが終了した。

 羽生-谷川の対戦がまもなく100戦に到達する。現棋界最高のライバル対決、盛り上がった形で再び見てみたいものである。

——–

将棋世界1999年10月号、第40期王位戦七番勝負〔羽生善治王位-谷川浩司棋聖〕第4局、「一局のなかの駆け引き」より。解説は森下卓八段(当時)、記は野村隆さん。

▲7六歩△3四歩▲6六歩△3二飛(1図)

羽生谷川相振り1

森下 第4局の出だしは▲7六歩から△3四歩▲2六歩かと私は予想していました。その後、谷川棋聖が4手目に△8四歩として3度目の横歩取りになるか、または△4四歩で振り飛車になるのか谷川さんの作戦に注目していましたが、いきなり羽生王位の方から3手目▲6六歩と変化してきたのには谷川さんも意表を衝かれたはずです。私も正直に言って驚きました。

 次の4手目は谷川さんも心中穏やかではなかったでしょう。例えばこれが2-1のスコアであればこの▲6六歩はありえない、3連勝の余裕か、などといろいろ勘ぐることになり、最初の構想がすべて消えてしまった谷川さんとしては早くも平常心が乱れてしまいました。

 もちろんシリーズの1局目にこの▲6六歩が指されても何ともないわけで、この期に及んでというのがいかにも羽生さんらしい手だと思いました。

 4手目△6二銀から居飛車もありますが、棋聖もなめられてたまるかという気持ちもあって△3二飛です。この序盤の3、4手が一番ミソでしょう。

―羽生王位は「相振り飛車は予定の作戦」とのことです。

森下 プロ間では非常に珍しい戦型です。この後は定跡手順で進みます。

(中略)

羽生谷川相振り2  

森下 2図の▲3七歩には驚きました。相振り飛車は3連勝の余裕とも思えるわけですが、例えば▲3七歩の替わりでは▲8五歩△3六歩の進行もあったと思います。

―感想戦でも触れられてました。

森下 ええ。しかし、そう進めても明らかに先手が悪いとは思えないのです。つまり相振り飛車にしたからのびのびやると思いきや、一転して手堅いわけで、この辺のリズムは独特の羽生流だという気がします。

―羽生王位は妥協した手と言われてました。

森下 手そのものは妥協なんですが、やはり緩急のリズムですよね。3連敗で▲3七歩と打ったら震えているということになるんです。3連勝で余裕の相振り飛車を見せられ「なめてきたな」と思ったら一転して手堅い。谷川さんもこれで相当リズムが狂ってくると思うんです。

2図以下の指し手
△3三桂▲8五歩△3五銀▲3八玉△6二金上▲4八金上△8二銀▲7五歩△9四歩▲9六歩△2四歩▲5六銀△2五歩▲8六飛(3図)

森下 しかし△3五銀までとなって、後手まったく不満のない駒組みで、谷川棋聖作戦成功です。少なくとも後手番の損はまったくない。

 先手はちょっと手詰まり模様で、この辺の進行は後手の方が一手一手先んじているというか、ポイントを押さえている感じです。

 3図の▲8六飛では当然▲8四歩から交換してからこの位置に進めたいところですが、それが出来ないので単に▲8六飛と第2の辛抱です。

 しかしこれでやはり谷川さんは調子が狂うと思うんです。つまり負けている谷川さんとしては、3手目からして余裕できているんじゃないかという意識があると考えられますが、しかしその後の羽生さんの指し手は非常に手堅い。そうすると段々おかしくなってくる場合があるんです。そういう印象を受けます。

 これが逆に谷川さん3連勝だと▲8六飛のような手はありがたいわけです。だから谷川さんとしては精神的にくたびれてきていると思います。

羽生谷川相振り3

3図以下の指し手
△1三角▲5五銀△2四角▲7六飛△5四歩▲4六銀△同銀▲同歩△3五飛▲6六飛△4四歩(4図)

森下 △1三角に対し▲1五歩や▲4五銀の変化もありますが、本筋ではないですね。▲5五銀に△2四角と出ましたが、現時点で極端なことを言えば、後手の谷川さんが千日手の権利をもっているような局面でして、▲7六飛に△1三角と引いたりしていれば先手もやる手がない。

 ところがなまじ指せている気があり、かつ気分的にも追い込まれていますから、△5四歩と行ってしまうんですよね。

 これが逆に谷川さんが3連勝していれば嫌がらせで1回△1三角と戻って様子を見ようということになるわけです。丸山さんなら当然こうやりますね(笑)。

 必然的に銀交換になりますが、先手が▲4六歩と突かされた感じは否めません。

 △3五飛は相当うまい手だと思いました。▲6六飛も仕方のない守りです。4図は正直言って後手を持ちたい局面です。

羽生谷川相振り4

4図以下の指し手
▲4七金直△4五歩▲3六歩△3四飛▲3五銀△同角▲同歩△同飛▲3七銀△5五銀▲8六飛(5図)

森下 先手は左の桂が遊んでいるから攻め合っては勝てません。だから方針としては受け切って勝ちたいのです。

―羽生王位は▲4七金直と顔面受けに出ました。

森下 ここで△5五銀か△4五歩かで難しいところですが、谷川さんが△4五歩に2分しか考えていないのはどうでしたか。やはりうまくいったという安心感と精神的なあせりがあったと思います。

 まだ時間もありますから当然△5五銀も考えるべきところでして、それで△5五銀か△4五歩かで比較検討してやはり△4五歩が優る、というなら分かるんです。で、だめだったら弱いということになる。

―感想戦では△5五銀の方が有力ということでしたが。

森下 △5五銀が有力とかいうよりも、谷川さんの気持ちがちょっと乱れているのではないでしょうか。腰がすわってないと言いますか。それがこの2分という数字に現れていると感じます。

 しかしやむなく羽生さんも▲3五銀と打って、角銀交換の進行は後手巧妙な指し回しに見えていたのですが。

羽生谷川相振り5

5図以下の指し手
△4六歩▲3六金△3四飛▲2三角△4四飛▲4六銀△2六歩▲同歩△3五歩▲3七金△2八歩(6図)

森下 △3五歩では先に△2八歩もありますが▲5五角切りがあるので△3五歩と打ちました。

 △3五歩に、もうがまんがならんと▲5五角と切る手を私は予想していました。△同歩に▲3五金と出ますが、駒の勢いがあります。羽生さんの棋風から思い切ってそうやるかなとも思っていました。

 しかし▲3七金とやはりがまんをします。

 局面が落ち着けば角銀交換の駒損が響いてまずいわけですが、どうも感想戦を聞いていると谷川さんはもうダメだという意識があったみたいですね。

―それはどのあたりからそうなってしまったのでしょうか。

森下 つまり先程の△4五歩に2分、5図の△4六歩に23分を見るともう気分的に疲れている感じがしますね。羽生さんの方は元気いっぱいで(笑)。

 だからこの後の指し手は手の善悪は別として、負けたなという感じを受けました。

羽生谷川相振り6

6図以下の指し手
▲3五銀△4二飛▲4三歩△同金▲2八玉△3四歩▲4四歩△3五歩▲4三歩成△同飛▲4四歩△同飛▲4七歩△4六歩▲同歩△3六銀▲同金△同歩▲3五銀△4二飛▲3四角成△6六銀打▲同飛△同銀▲同角△6九飛▲3三角成△2九飛成▲同玉△3七歩成▲6一銀(投了図)まで、105手で羽生王位の勝ち

(中略)

森下 ▲3五銀と打たれて終わってしまったということですが、手の解説云々というより、谷川さんは気分的にすっかり参っている印象を受けました。

―記録係の証言では、対局室での谷川棋聖は、元気がなくて何か様子が変だったということです。感想戦でもあまり発言されませんでした。

森下 やる気さえあれば相当難しい局面もありましたが、どうでしょうか。ちょっと驚きました。

 極端に言えば3連敗のプレッシャーで3手目▲6六歩をやられた時から、そういう状態になっていたのかもしれません。

(以下略)

——–

羽生善治四冠(当時)に何度も痛い思いをさせられている森下卓八段(当時)ならではの解説。

同じ指し手でも、七番勝負の0勝3敗の時と3勝0敗の時では受ける印象が180度変わってしまうという現象。

番勝負には魔物が棲む、と言っても良いのだろう。