先崎学五段(当時)と新宿将棋センターと冷奴ライス

将棋世界1992年2月号、先崎学五段(当時)の「先チャンにおまかせ 二日酔いの待つ新宿へ」より。

 11月21日、快晴。

 午前10時。

 目覚ましをかけたわけでもないのに、僕は、突然、飛び起きた。瞬間、頭の上に、デカイ釣鐘が落ちてきたような初撃を受け、そのままベッドに沈み込んだ。部屋は、完全な廃墟になっていた。ヒドい二日酔いだ―と認識するまでに10分はかかり、昨日のことを思い出すまで10分、そして、今日の用事を思い出すのにまた10分かかった。

 チェッ、マタヤッチマッタ。深い後悔におそわれながら、昨日負けた将棋の内容が、ぐるぐる回り出した。ヤケクソで中村修さんと飲みまくったっけ―。

 シャワーでもとりあえず浴びるか、と思ってノソノソ立ちあがったとき、背筋から踵の方に、サーッと血が引いた。

 鞄がない!

 昨日まで持っていた、茶色い鞄が・・・大事なものが沢山入っていた大事な鞄が・・・、どこをどう探しても(というよりワンルームマンションなので一目瞭然なのだ)ない。ナンテコッタイ。

 とりあえず、中村さんにTELをする。

 「うぇーん、やっちまいましたでんがな」

 「なんだい、変な病気でももらったか?」

 「ハアー何を言ってるんスか、昨日鞄をなくしたでんがな、ありまへんがな。なんか覚えてないスかー」

 と訊いてきたところで、中村さん、どう考えても、僕ちゃんより酔っていた。

 「知らないっス。辛いっス」

 結婚はするらしいし、順位戦で戦わずして勝つし、それでいて、辛いっスが口癖なんだからやんなっちゃうのである。

 とりあえず、夜、昨日行った飲み屋に片っ端から電話するしかないということになった。とにかく頭が痛い。

 水をやたら飲んで、もう一度寝る。

 1時半に、起きたが、少し楽になったものの、やはり、将棋を―それも、10分切れ負けを―指せる状態ではないが、行かなければいけない。なんとしても。

 己を鼓舞するために、ワーグナーの『ワレキューレの騎行』をヘッドフォン付きでボリュームをがんがんにして聞く。パンパカパーパ、パンパカパーパ、パンパカパーパー。僕の頭の中に、『地獄の黙示録』のマーロン・ブランドの顔が浮かぶ。

 なんとしても行かなくては。僕は強く思うと、決闘の場所『新宿将棋センター』へ向かった。マンションのドアの鍵は開いたままだった。

  

 21歳の僕に、こんな依頼がくることはないだろうが、もし、今、思い出の場所を一つあげろといわれたら、即座に『新宿将棋センター』とあげる。僕にとってとにかく懐かしい所なのである。小学校の内弟子時代、同じ内弟子だった林葉直子さんと、3年間、毎日通ったものだ。

 二人共、四段で指していた。勝率7割くらいあっただろうか。中に食堂があって、そこで、冷奴ライスの大盛や、タンメンをよく食べた。林葉さんは、たまに負けが込むと、アツがって、なかなか帰ろうとせず、時に門限ギリギリになった。ほとんどの人には、つづけて負けることはなかったが、中に一人、強い人がいて、いつも、矢倉の本格的な将棋で負かされた。なんでも、昔奨励会の三段まで行った人らしく、なる程その片鱗は子供心にもうかがえた。

 小学校を卒業して、同時に内弟子を卒業してからは、トンと御無沙汰になった。センターの近くで、麻雀を打ったり、酒を飲んだり、パチスロをやったり、様々な遊びをしたが、目と鼻の先にあるセンターに足を向けることがどうしてもできなかった。内弟子時代からの訣別は、当時の僕にとって、最大のテーマだった。毎日通った将棋センターの回りで、自由に遊び回ることは、なんとも開放感あふれていて、すがすがしかった。

 十年一日のごとくという(十年一剣は南さん)。僕は、センターに連日通った頃から、色々と脇道に迷い込みながらも、結局将棋を勉強しつづけた。どれだけ強くなったか、自分では分からないが、確実に、かなり強くなっているはずである。だから、絶対に、一番も、負けてはいけない。僕はプロなんだから。

 しかし、僕は二日である。相手は、裏街道の真剣師達である。しかも持ち時間は僅か10分―の切れ負け、僕の気持ちを一言でいうと、エライコトニナッチマッタゼ。である。

(以下略)

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新宿将棋センターが歌舞伎町にあった頃の話。

新宿将棋センターの入り口から入って左奥に、カウンターだけの食堂があった。

おでんが名物だと聞いた記憶があるが、酒も出していた。

私も何度か新宿将棋センターへ行ったことはあるけれども、食堂では一度も食べたことがなかった。

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それにしても、「冷奴ライス」とは、初めて知ったメニュー。

夏の酒のつまみとしてエースの座を保持している冷奴だが、決してご飯との相性が良いとは思えない。

チーズやサラミをご飯で食べて変わり者視されている私でさえそう感じるのだから、ほとんどの方がご飯と冷奴の組み合わせに違和感を感じられるのではないだろうか。

調べてみると、「冷奴ライス」は見つからなかったものの、「冷奴定食」は存在している。

複数の例から、定食の構成を見てみたい。

ケース1:ご飯、味噌汁、浅漬け、さつまいもの煮物、ひじきとコンニャクの煮付け、大きな冷奴

ケース2:ご飯、もずくと山芋とろろ、豚の串カツ2本、大きな冷奴

ケース3:ご飯、味噌汁、魚のフライ、ぬか漬け、大きな冷奴

ケース4:ご飯、味噌汁、サラダ、大きな冷奴

ケース5:ご飯、お吸い物、牛煮込み、お新香、ワカメが乗った冷奴

ケース6:ご飯、冷奴、天ぷら、ざるそば

ケース7:ご飯、味噌汁、納豆、生卵、小鉢、冷奴

冷奴とご飯・味噌汁だけという例はなかったが、それぞれ冷奴の占める比重が大きい。

ヘルシーなメニューということで、根強い人気があるようだ。

それにしても「冷奴ライス」、、どのようなものなのだろう・・・

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天明2年(1782年)に、100種類の豆腐料理の調理方法を解説した料理本「豆腐百珍」が刊行されている。

この中で冷奴は、通品(調理法が容易かつ一般に知られているもの。料理法は書くまでもないとして、品名だけが列挙されている)として紹介されている。

冷奴は、江戸時代以前から一般的な食べ物だったものと思われる。

ちなみに「豆腐百珍」で通品とされているのは、焼き豆腐、油揚げとうふ、おぼろとうふ、ちくわとうふ、葛でんがく、など。

江戸時代の食事の三大食材は、米・大根・豆腐だったと言われている。

また、江戸時代は、豆腐を水6・醤油1・酒1の割合(地域によって比率が違っていたので4:2:2の説もあり)で煮込んだ「八杯豆腐」がメジャーな食品だったともいう。

豆腐の世界は奥深そうだ。