将棋世界1992年5月号、先崎学五段(当時)の先チャンにおまかせ「藤枝明誠高校を訪ねる 制服女子高生、可憐な六枚落ち」より。
自分自身でこんなことを書くのはちょっぴり恥ずかしいが、人間を、上品、下品の二通りに分ければ、僕は完全に下品な人種である。どうも世間の人からは感覚がずれているようで、一度、若手棋士と女流棋士を集めて”カレーライスを食いながらおもいっきり雲古の話をする会”というのを企画したが、皆の大反対にあってしまって流れてしまったことがある。
或る時、酒場で、うら若いにもかかわらず、エッチで下品な話が大好きな女の子(林葉直子じゃないよ)と飲んでいた。こういうタイプが一番餌食になりやすい。
まずビールが来る。
「酒飲み過ぎで二日酔いになるだろ。そうするとこういう色のが出るんだよなあ」
(中略)
「砂漠で黒人の若者が死にかけていた。もう水も食糧もない。仮に名前をトムとしよう。トムは祈った。おおマリア様、私を助けて下さいまし。ところが助けに来てくれたのは、まあ来てくれるだけでいいんだけどね、なんと悪魔だったんだ。わかる?」
「うん」
「悪魔はいった。俺はお前さんの命を助けることはできねえ、でも可哀想だから、お前の願いを三つかなえてやる。トムはしばらく考えて言った。まず好きなだけ水を飲みたい。そして白い肌になってみたい。最後に、死ぬ前に一目、女のアソコを拝みたい。さてどうなったと思う?」
「さあ、オチがあるんでしょ」
「悪魔はOKといってドロンと消えた。次の瞬間、トムは女子用便所の便器になっていた―」
「・・・・・・バカ」
遂にTKO勝ちである。こんなことばかり言っている。
さて、今回の目的は、高校に行って女子生徒と将棋を指すことである。さあ困った。高校生―学生時代である。学生時代といえば、蔦のからまるチャペルである。祈りを捧げた日である。それに引きかえ、こちとら便器の話の専門家みたいなものなのだ。ああ、このミスマッチをどうする、どうする、どうする。
2月28日、朝10時04分発の「こだま」に乗り込む。とにかく眠くて眠くて仕方がないが、これから高校の門をくぐるのかと思うと、不思議に心がときめいて寝ることができない。実質上中学中退の僕にとって、高校生活というのは、いわば憧れであって、どうしても嫉妬と羨望を感じてしまう。だからといって学歴コンプレックスがあるのかというと、自己弁護になるが、決してそんなことはなく、大学生に対しては、何も感じず、憧れることもない。よくわからん。
(中略)
静岡で新幹線を降り、さらに東海道線で十数分進み、目的地の藤枝市についた。
(中略)
改札には藤枝明誠高校の加藤康次先生が迎えに来ていた。奨励会に一年ぐらい在籍したことがあり、同期生に神谷さんや大野さんがいるときいたことがあり、不思議にそれだけで親しみを感じてしまう。藤枝明誠女子部台頭の立役者。若伯楽。プロレスラーのような体躯に、悪戯好きの小悪魔のような愛敬ある顔は、教育者としては素晴らしいミスマッチである。
着いた。ついに着いた。人生二十一年、大学の校門はかの赤門をはじめいろいろくぐったが、高校の門をくぐるのははじめてなのだ。浮き浮きするなという方が無理だろう。蔦のからまるチャペルも祈りを捧げる信仰心もないが、我が憧れの制服である。深呼吸をした。空気の澄み方すらも新鮮だった。
加藤先生が、
「もうすぐ国旗と校旗の降納がはじまりますが、ご覧になりますか」
という。漢字で書くとよく意味が分かるが、口でいわれて、咄嗟にとまどってしまった。
「コウノウってなんですか?」
「ケイヨウの逆です」
これが掲揚のことだと分かるまでに瞬き三回かかった。
「あと、代表生徒の誓いの言葉というのがあるんであう」
「へーそりゃいいや、見せて下さい」
誓いの言葉というのはいい。やっと高校らしくなってきた。
(中略)
棋道部の部室に行く途中に、名物教師の講義なのだろうか、賑やかに授業をやっている教室があった。こういうのを見ると、すぐムラムラッとくるのが僕の悪い癖である。とりあえず窓から覗いてみる。やはり、若くて、小柄な先生が、明るく熱弁をふるっている。
「ちょっと入っていいですか―」
加藤先生ちょっぴり困った顔をしたが、「まあいいでしょう」とすぐに許してくれた。
おそるおそる教室に入った。皆の視線が一斉にこちらを向いた。
「いや、はあ、べつに怪しいものじゃありませんから、へっへっへ」
どうみたって怪しい。
しばらく隅でうろうろしていた。もう出よう、と思った。しかし、救う神あり、「あいつ、テレビで見たことがあるぞ!」
一人が叫んだ瞬間、雰囲気ががらりとかわった。「えーテレビ―」女子生徒の声が聞こえる。
「す、すみません、このノートに、サ、サインをください」
きっとこちらの名前も知らないような生徒が、サインを求めて来た。芸能人かなにかと勘違いしたのだろう(いや、もしかしたら知っていたのかな)。仕方がないので、エスペラント語のような字を書いてやった。
名残惜しいが、あまり授業の邪魔をしてはいけない。頃合いを見計らって、部屋を出て、部室へ向かった。僕の足は、いつもより少し高く上がった。
まず、ご対面になった。皆隅の方にとじこもり、こちらを向いてヒソヒソしている。緊張するのは無理もないだろう。
一人一人自己紹介があった。三年生は受験シーズンとあって、一人しかいず、1、2年が中心なので、なんとも初々しい。
中に一人、OG(オフィス・ガールじゃないよ)の子がいた。
「白鳥めぐみです。今、神奈川大学に通っています。棋士の先生では、島さんや羽生さんを個人的に知っています」
僕は、おもわず部屋中をかけ回りそうになった。個人的にである。まあ島さんは、すでに結婚しているから関係ないとして、もしかしたら羽生の彼女・・・だったりして。顔をジロジロ観察する。なかなか可愛い。羽生が面食いかどうかは知らないが、まあ可能性はありそうである。しかし、こんな所でバレるとはねえ―。こんど突っ込んだろ。アイツ嫌がるだろうな。
一発先制パンチを浴びせられて、ややフラッと来たところで7面指しがはじまった。手合は六枚落ち5人、五枚落ち2人。
指す前に、加藤先生より、女子は皆よく考えますよ、といわれていたが、いやはや、たしかに皆さん慎重である。いや、正確にいうと、途中から慎重になり、指さなくなってしまう。なぜ最初は早指しかというと、加藤先生の教えがゆき届いていて、六枚落ちや五枚落ちに関しては完璧に定跡通り指してくるからである。
(中略)
最近、ふとしたことから、複数の若い女性に別々に将棋を教える機会をもった。
彼女達に共通する二大特徴として、
①納得がいくまでよく考える。
②取った駒をなかなか打ちたがらない。
ということがある。とくに②は、同年代の男とは対照的で、ある女の子などは、六枚落ちを指したら、駒台に歩を8枚!載せられてしまった。森下さんみたいな奴だ。
①。これは仕方ないのである。どうも、将棋に限らず、何事においても女性の方が妥協しないようである。
(中略)
終わった後は、ジュースとケーキを教室に持ち込んで懇親会となった。甘すぎるケーキには、ちょっぴり辟易したが、気持ちだけでも、嬉しい。
残念なこと一つ。別に明誠のことではなく、全体的なものなのだが、高校では将棋部に入って、熱心に将棋を勉強した女の子も、大学に行くと、ほとんどやらなくなってしまうのである。明誠の、とくに対局した7人の女の子には、大学に行っても、ずっと将棋をつづけてほしい。
懇親会終了後、職員室で機会があったので、めぐみちゃんに訊ねてみた。
「あの、島さんや羽生とはどういう」
「えっべつに、島さんには一度大勢で食事を御馳走になって、その後しばらくして島研(注・島、佐藤康、森内、羽生)の後にみんなでボウリングをして、食事をして・・・それだけです」
ナーンダ。それなら心配して損した。
全国の女性羽生ファン。ご安心めされい。
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この文章で登場している藤枝明誠高校の加藤康次先生は、加藤桃子女流王座のお父様。
高校3年の時に奨励会を受験し6級で合格(安恵照剛八段門下)。1年で4級まで昇級したが、自分にはもっと別な道があると思い1年で奨励会を退会、二浪して國學院大學へ入学。大学院修士課程を経て、1984年から藤枝明誠高校の国語の教師となった。
棋道部顧問としては、高校選手権男子団体優勝1回、女子団体優勝5回、女子個人優勝1回という驚異的な実績をあげている。
加藤康次さんが亡くなられた翌年の2009年、藤枝明誠高校棋道部OB会のホームページが誕生している。加藤康次さんがいかに生徒たちから慕われていたかがわかる。
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それにしても、導入部のエピソードから女子高生との対局へと話を繋げる展開は、なかなか大胆だ。
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「蔦のからまるチャペルで・・・」で始まる歌はペギー葉山さんの「学生時代」。
古来より有名な曲なので特に歌詞を意識したことはなかったのだが、今回調べてみると、「学生時代」は当初は「大学時代」というタイトルだったという。
この曲は、青山学院高等部→青山学院大学出身の平岡精二さんが青山学院大学をイメージして作詞・作曲し、青山学院女子高等部卒業のペギー葉山さんが歌うこととなった。
その時、ペギー葉山さんが、青山学院女子高等部の卒業生として、大学に限定した歌ではなく広く学生時代をイメージしたタイトルがいいと主張して、「学生時代」と決まった。
たしかに、私も今まで、「学生時代」は高校時代のことを歌っているものとばかり思っていた。カトリック系の女子高と。
しかし、ペギー葉山さん的にはプロテスタント系の女子高、平岡精二さん的にはプロテスタント系の共学大学をイメージしていたわけで、そういう意味では「学生時代」に対して思い描くイメージは人それぞれ多様なのかもしれない。
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藤枝明誠高校OGの白鳥さんの、
「えっべつに、島さんには一度大勢で食事を御馳走になって、その後しばらくして島研(注・島、佐藤康、森内、羽生)の後にみんなでボウリングをして、食事をして・・・それだけです」
という話には、将棋史的に重要なことが含まれている。
「島研」は、週末の午前9時から始めて、昼食、太陽が沈まない午後4時ごろ解散というスケジュールで行われていたという。
そして、1日に2回以上食事を一緒にしないという掟。
研究会が終わったらサクッと解散するのが島研の流儀で、研究会終了後、4人そろって酒を飲みに行くことはもちろんのこと、4人そろって夕食をとることもなかったと言われる。(厳密には一度だけ4人で麻雀をやって昼も夜もソースカツ丼を食べたという記録がある)
そのような島研の日に、島研のメンバーが女子大生などとボウリングをして食事をして、ということがあったのなら、島研にとって極めて異例の日だったことになる。
島研メンバー全員の参加だったのか、あるいは島朗七段(当時)と羽生善治棋王(当時)だけの参加だったのか、興味深いところだ。