羽生善治五冠(当時)の勝率が良くなかった戦法

近代将棋1993年10月号、武者野勝巳五段(当時)の「プロ棋界最前線 羽生将棋を科学する」より。

私が羽生と対戦したなら

 羽生が谷川との棋聖戦五番勝負と、郷田との王位戦七番勝負を立て続けに制して、五冠王達成の最年少記録を樹立した。五大タイトルを同時に保持するのは大山、中原に次ぐ三人目のことだから、いよいよ棋界制覇に向けて最初の金字塔を打ち立てたというところだろうか。

 おそらく本誌には「羽生、最年少の五冠王に」とか「羽生将棋強さの秘密」などの見出しが並び、今月は羽生特集号の様相を呈していることだろう。この欄もプロ棋界の最前線を標榜している限り羽生にふれないわけにはいかないが、同じような企画となるのはイヤなので、逆に「羽生将棋の弱点を探る」主旨で構成してみたい。私も羽生の将棋と人柄が好きなのでかなりやりにくいが、自分自身に対局通知が届いたつもりで、データをひもといてみる。

直近の実戦を調べる

 まず、わが家のコンピュータに入っている棋譜データの中から、羽生の今年の実戦を調べてみる。

(中略)

 33勝6敗1千日手という好成績であることが分かる。これくらいで驚いてはいけない。なにしろ敵はプロ棋士になって以来490戦して、376勝114敗、勝率7割6分7厘というスーパースターなのだ。一口に7割7分と言うが、今日現在セ・リーグ首位を走るヤクルトの勝率は5割6分5厘。勝ちすぎて白けちゃってるパ・リーグの西武だって6割1分1厘なのだ。ちなみに西武は残り39試合あるのだが、これを全勝したって最終勝率は7割2分9厘・・・羽生の生涯勝率には遠く及ばないのだ。

負け将棋に注目

 直近の40局を数日がかりで並べ、採用戦法や攻防の傾向などをつかむ。もっともこれは上っつらだけの研究という雰囲気もあり、敗戦集を特に念入りに調べ打倒羽生の下ごしらえをする。

 対谷川・棋王戦①は先手谷川の誘導で角交換腰掛銀。▲1一角を打った谷川の新研究のし掛けが決まった将棋。

 対谷川・棋王戦③は先手谷川が棒銀の速攻。

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 1図から▲3四銀!△同金▲3五歩△同金▲同角!△同角▲3四桂・・・という強襲を決め、攻め倒した将棋。

 対米長・全日プロは先手の羽生が相掛かりに誘導。第2次の駒組み戦に入ろうとした2図で、米長が△6六歩▲同歩△5四銀という新手を披露。この積極策が功を奏し、短手数で米長快勝。

photo_2 (1)

 対谷川・王位リーグは先手の羽生が中原式相掛かりに誘導、攻防に幅の広い局面で谷川が攻め合いに進路を採ったのがよく、リードを奪って制勝。

 対谷川・棋聖戦①は相矢倉。終始形勢互角に近いまま終盤戦へと推移し、谷川が自玉も危ない局面で読み切って寄せ合いに出る。△4七角のタダ捨てが登場した話題の名局。

(中略)

急戦で先攻がポイント

 こうしてみると、羽生の敗局パターンというのは「急戦模様の将棋で先攻された」場合が多いようだ。そう思ってさらに以前の将棋まで含めて調べてみると、

(1)角換わり腰掛銀の戦績が9勝6敗(先手番1勝4敗、後手番8勝2敗)

(2)角交換その他の戦績10勝4敗(先手番4勝、後手番6勝4敗)

(3)相掛かりの戦績12勝7敗(先手番4勝4敗、後手番8勝3敗)

という結果が出た。いずれも好成績ながら、羽生にとっては生涯勝率よりもかなり低い通算結果がでた。一応苦手戦法と分類してよいだろう。

 こうしてみると武者野が対戦する場合には、(1)角交換型の急戦に誘導し、(2)新研究をぶつけて先攻する・・・というのが有力な戦法のようだ。角換わり将棋には、「仕掛けたら即終盤」といわれる戦型が多く、仕掛けがツボにはまったなら、羽生にそのまま立ち直りを許さず、一気に土俵の外にもつれ込むという展開も考えられるからだ。

羽生は対応型

 と、ここまで書いてきて重大なことに気がついた。先ほどの戦法別勝敗の内訳だが、先手番の勝率が意外なほど悪いのだ。角換わり腰掛銀の先手1勝4敗、相掛かりの先手4勝4敗・・・これらが急戦型の勝率を下げているのだが、羽生はなぜこれらの苦手戦法に自らを誘導したのだろうか?

 対局日を順に追っていくと、「技を掛けられて負けた戦法を次局に採用する」という傾向が何度か見られる。つまり羽生は苦手戦法を意識すると、公式戦でその戦法に自ら飛び込み、苦手克服に積極的な努力をしているわけで、それがすぐに後手番での高い勝率となって跳ね返ってくるあたりは、かつて中原が棋界の太陽として君臨した様を思い起こさせる。潤沢な終盤力、旺盛な進取の精神、これではまったく追いかける者も大変だが、私もその一人としてせめて刀が錆びぬように日々精進することにしよう。

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先手番であれば、相手が居飛車党である場合は、自分が想定した戦法に誘導できる可能性が高い。

羽生善治五冠(当時)は、勝率の悪い戦法に自ら身を投じてそれを克服し、オールラウンダーへの道を歩んで来たことになる。

まさしく、その時々の一分の隙もない状態への進化の連続。

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現代版でも、棋士別戦法別先後別勝率一覧のようなものがあれば面白いだろうなと思う。