羽生善治竜王(当時)の100面指し

近代将棋1993年10月号、池崎和記さんの「福島村日記」より。

某月某日

 森信雄六段(関西本部の新理事)と一緒に雷鳥23号で富山へ。明日、星井町小学校体育館で羽生竜王の「100面指し」があるのだ。羽生さんは当日、飛行機で来るそうだ。

 このイベントは星井町児童文化センターの将棋クラブが将棋世界誌の「全国棋士派遣プロジェクト」に応募して実現したもので、羽生さんが指導するのは小中学生100人。

(中略)

 体育館に下見に行くと、星井町児童文化センターの皆さんが準備の真っ最中。長テーブルを34台(1台につき将棋盤が3面ずつ)、「ロ」の字形に並べてあった。その内側を、羽生竜王がカニみたいに横歩きしながら一手ずつ指していくわけだ。

 一周するのにどれくらい時間がかかるか、試しに森さんが歩いてみると5、6分だった。かりに1局平均100手(うち上手が指すのが50手)とすると、100面では4時間以上かかる計算になる。しかも上手は立ちっぱなしだから、大変な重労働である。

 小中学生が10人、設営の手伝いにきていた。「予行演習をしようか」と森さんが言い、チビッコ相手の10面指しが始まった。途中から私と大崎さんが中に入って上手の手伝い(3人連携の多面指し)をしたのだが、それでも全面指し終わるのに約1時間かかった。「10面指しでこれだったら、100面指しはどうなるのかな」と森さんと大崎さんも心配顔。

 羽生さんは4日後に王位戦第3局を控えている。それを承知で「将棋の普及になれば」と100面指しを引き受けたのだ。もっとも大崎さんによると「バランスを取るため、同じ日に郷田王位にも多面指し(長野県で50面指し)を依頼したそうだ。

 トップ棋士が率先して普及活動に動いている。すばらしいことだ。

 夜、富山県支部の村上支部長に夕食をごちそうになった。

某月某日

 小中学生がテーブルの外側に100人ずらりと並んだ。壮観なながめ。いよいよ100面指しである。

 開会式のあと、午後1時20分から対局開始。「平手でもOK」ということだったが、ほとんど駒落ちで、中でも六枚落ちが一番多い。

 羽生さんの着手は1手1秒。しかし何周かしているうちに1手2秒くらいになった。駒がぶつかってくると無造作に指せないし、また体も疲れてくるからピッチが遅くなるのは当然だ。それでも一周する時間が約5分と、かなり速い。

 珍局がいくつかあった。まず羽生さんが王手をウッカリして玉を取られた(上手の玉が相手の駒台に乗った)。これはまあ、ご愛嬌だが、下手の”いじわる”もあった。例えば2手指しや3手指し。必至のかかった玉が、1周後には2手スキになっていたり(下手が端歩を突いて玉の逃げ道を作った!)、あるいは隣同士で駒を動かしながら検討して、局面が元に戻らなかったり。

 「2手指しまでは許しましたけど、3手指しはさすがに注意しました」と羽生さん。全部お見通しだったのだ。悪いことをした子は反省しなさい!

 100面指しが終了したのは午後5時前。羽生さんは最後まで一人で指した。途中、大崎さんが羽生さんの体を心配して何度も「疲れたらいつでも言って下さい。代わりますから」と申し入れたが(そのためにピンチヒッターの奨励会員を2人連れていた)、羽生さんの返事はいつも「いや、大丈夫です」。

 羽生さんはきっと、最初から一人でやり通すつもりだったんだろう。体力もすごいが、精神力はもっとすごい。と私は思った。

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将棋世界1993年10月号、永野啓吾さんの「羽生善治百面指し!!」より。

将棋世界同じ号より。撮影は弦巻勝さん。

 さて、注目の勝敗結果だが、羽生竜王の64勝36敗。百面指しの大変さがよくわかる結果というべきか。

 最後に羽生竜王が挨拶。

 「無事終了できて本当に良かったと思います。私にとっても、今日はとても印象深い一日になりました・・・」

 会場からふたたび大きな拍手がわいた。

 しかし、挨拶が終わっても、子どもたちは会場を去らない。50人近い子どもたちが、色紙を片手に竜王の前に並ぶ。竜王は疲れも見せずに、その一枚一枚に丁寧に「決断」他の言葉を書き、署名をしていく。

 その中に一人、色紙を持っていない子がいた。その子はノートを破り、その紙に書いてほしいと希望した。さすがにノートの切れ端には・・・と竜王もためらう。それを察してか、その子は不安そうに竜王を見上げている。

 羽生竜王はどうしたのか。

 その子にペンを渡し、その紙片に住所と名前を書いてもらうと、

 「東京に戻ってから色紙に書いてちゃんと送るから、待っててね」

 この”妙手”とともに、長い一日が終わった。

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羽生善治竜王(当時)の100面指し。

指してもらった人には幸福が訪れるという神事のような趣きがある。

100人の子供たちとその父兄の笑顔。

色紙を送ってもらうことになった子の話は、神話そのものだと思う。