昨日の記事「高橋道雄九段の秘策と羽生善治竜王(当時)の絶妙なしのぎ」での高橋-羽生戦について、高橋道雄九段がブログ「みっち・ザ・わーるど」で、
「研究に裏付けされた高橋九段の秘策」
って解説してあるんだけど、
全然そんな事ないんだ。これよりも、ずっと前の局面でやってみたい形が
あったんだけど、そうは進まず、結局、成り行きで
こうなった。
と書かれている。
高橋九段への取材がなかったので、事実から大きくずれる内容となっているという。
たしかに、過去の雑誌などで発表されている記事でも、そのようなケースはいろいろあったのかもしれない。
そういった意味では、今回20年前の棋譜の真実が明らかになったわけで、とてもありがたいことだと思う。
過去の記事や観戦記に、対局者であった棋士がその背景や記事に盛り込まれていなかったことを語る、というような企画があれば面白いものになるに違いない。
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今日は、昨日の高橋-羽生戦と同じ頃に高橋道雄九段が連採した「新型スズメ刺し」について。
こちらの方こそ、当時の高橋道雄九段の研究に裏付けされた秘策というのにふさわしいだろう。
将棋世界1993年7月号、島朗七段(当時)の「今月の眼」より。
矢倉と言えば最近は森下システムか▲3七銀型の二つだけ、というくらい形が決まってきている。そんな風潮の中、矢倉の大家、高橋道雄九段が連採している「新型スズメ刺し」が、ひそかな脚光を浴びつつある。その昔のスズメ刺しは、天敵である棒銀にどうしても勝つことができず姿を消した。高橋流の工夫は、そんないとまも相手に与えないのだ。
1図がそのスタート。
飛車先の歩はもちろん、▲3六歩を後回しにするのがコツらしい(手順は全て1図以下、△7四歩と△4四歩の手順前後あり)。
▲高橋九段-△佐藤康六段(4月21日王位リーグ)
△4三金右▲1七香△5三銀▲1八飛△6四銀▲6七金右△5二飛▲4六歩△7四歩▲4七銀△7三桂▲3六歩△5五歩▲同歩△同銀▲5六歩△6四銀▲3七桂△7二飛▲8六銀△4二角▲6八角△3一玉▲7九玉△2二玉▲8八玉△7五歩・・・(2図)
早い段階での端狙いは、後手の△3一角が制約を受ける。動いた時に▲1四歩からの強襲が見えているからだ。そこで佐藤六段は△6四銀型を決めたあと、いったん△5二飛と中央へ牽制し▲4六歩と角道を止めさせた。一歩交換を一手損と引き換えに局面は持久戦へと進んだが、先攻できたとはいえ▲5五桂のキズや端に勢力を集中させた先手の反撃も中終盤でことのほか効いてきたのだった。
▲高橋九段-△森内六段(2月26日・王位リーグ)
△7四歩▲1七香△4三金右▲1八飛△7三銀▲6七金右△2四銀▲3六歩△4二角▲3七桂△3一玉▲2六歩△2二玉▲4六歩△7五歩・・・(3図)
△7三銀は△6四銀だけでなく、7筋交換を見せた手。それに対し▲6七金右は少々甘く、▲3六歩が優ったらしい。
何故ならここで一手かけたことにより、後手玉の入城を許してしまったためだ。
もし▲3六歩を先にしていれば△3一玉に▲2五歩△3三銀▲1四歩がある。
▲高橋九段-△郷田王位(4月9日・棋聖戦)
△4四歩▲1七香△9四歩▲1八飛△9五歩▲3六歩△7三桂▲6七金右△4三金右▲3七桂△9三香▲4六歩△4二角▲4七銀△3一玉▲5七角△2二玉▲2六歩△9二飛▲8八銀・・・(4図)
相スズメ刺しは昔のタイトル戦でも現れた形。先手から角筋を止めることになりがちで、後手も玉を囲う余裕が。主導権もむしろ後手にあり、千日手含みの戦略も考えれば現状では最有力の対抗策かも。本譜は手待ちをお互いしばらくした後、高橋九段から仕掛けた。
▲佐藤康六段△深浦四段(4月27日・新人王戦)
(中略)
▲佐藤康六段△大野五段(4月30日・王将戦)
(中略)
どの将棋もいまだ不定型という感じで同じスズメ刺しにしても、やはり▲2六歩の一手がどこかに使われていることを思うと、昔の定跡で必要な部分、そうでない部分の選択が難しい。驚いたことに、今月取り上げた5局、結果がいずれも先手勝ちに終わっている事実をどう分析するのか、今後の展開が待たれる。
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高橋道雄九段がこの「新型スズメ刺し」で、森内俊之六段(当時)、郷田真隆王位(当時)、佐藤康光六段(当時)の順に破り、佐藤康光六段も高橋九段に敗れた翌週に早速「新型スズメ刺し」を採用している。
この流れは棋聖戦第1局(1993年6月19日)でも現れる。
将棋世界1993年8月号、池崎和記さんの第62期棋聖戦〔羽生善治竜王-谷川浩司棋聖〕第1局観戦記「寒気のする終盤戦」より。
島朗七段が本誌の名物コラム「今月の眼」(7月号)で、この新型スズメ刺しを紹介している。それによると、飛車先の歩を突かず、また、▲3六歩も後回しにして▲1五歩と突き超すのが”新型”のゆえんで、もともとは高橋九段が連採して脚光を浴びるようになったとか。
本局、出だしは変則ながら、その高橋流になった。「最初からの作戦」(羽生)だったそうだ。
(以下略)
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まさしく当時の最前線。
定跡の進化のスピードはこのようにして早まっていったのだろうという好例かもしれない。