将棋世界1993年8月号、池崎和記さんの第62期棋聖戦〔羽生善治竜王-谷川浩司棋聖〕第1局観戦記「寒気のする終盤戦」より。
昨日の記事の最後で取り上げている棋聖戦第1局だが、終盤がすごい。
谷川と羽生。現棋界最強と言われる二人が、先の竜王戦、棋王戦に続いて、棋聖戦でも対決することになった。
竜王戦と棋王戦はフルセットまでもつれ込み、どちらも最後は羽生が勝った。今度はどうだろう。
「羽生が勢いに乗って四冠を達成するか。それとも谷川が逆襲に転じて”復活”のノロシを上げるか」
おそらく、ファンの関心はこの一点にあると思われる。
待望の五番勝負は6月19日、大阪で幕を開けた。対局場は大阪城の近くにあるホテルニューオータニ大阪。
(中略)
前夜、僕は関西将棋会館でB級1組の順位戦を見た。すべての対局が終わったあと、控え室で棋士たちがこんな話をしていた。
「いまの羽生君の強さは異常だよ。悪い将棋でもことごとく勝ってるからね。どう考えてもおかしいよ」
「人間なんだからさ、たまには負けそうなものなのに、あれだけ勝つというのは、たしかに異様だ」
「羽生君、催眠術を使ってるんじゃないかなァ」
サイミンジュツという言葉に、僕は思わず噴き出してしまったが、棋士たちは笑っていなかった。羽生の強さの秘密が、だれにもわかっていないのだ。
その羽生が、盤をはさんで谷川と向い合っている。二人とも無言。大勝負だから当然だが、僕は盤外でも、二人が話しているところを見たことがない。
例えば、米長新名人が誕生した尾道市での名人戦。谷川は特別立会人、羽生はNHK衛星放送の仕事で現地にいたが、二人が談笑する場面は一度もなかったような気がする。僕の思い違いかもしれないが、両天才は互いに視線が合うのを避けているように見えた。
盤上でも盤外でも、最強者同士が火花を散らすのは、いいことだ。願わくば、いつまでもこういう緊張感のある関係でいてほしいと思う。
(中略)
5図。谷川の玉はいまにも詰みそうな形だ。しかし谷川は受けなかった。次の一手が妙手。
5図以下の指し手
△8七歩成▲同金△7九飛▲8八玉△7八銀(6図)
羽生玉に必死
「谷川先生、残り30分です」
記録係の声が、最後列で観戦していた僕の耳にもはっきり聞こえた。谷川は指さない。「残り20分」になり、さらに5分が経過してから、△8七歩成。
▲同玉は△8六銀▲同玉△8二飛で詰む。羽生の▲同金はこの一手だ。
続いて△7九飛の王手。羽生は▲8八玉と引いた。合駒を使うと後手玉に寄りがなくなると思ったのだろう。
谷川は間髪をいれず△7八銀(6図)。詰めろ。いや「必死」である。
▲8八玉に10分使った羽生が、ここでまた考え込んでしまった。変だ。もし後手に即詰みがあるとすれば、先の10分の考慮で読み切ったはずだ。すぐ着手しないのは、谷川玉に詰みがないということなのか。いや、それとも勝利の再確認?
打ち歩詰め
6図以下の指し手
▲4三歩成△4一玉▲4二金△同飛▲同と△同玉▲4八飛△4七角(7図)
「谷川先生の勝ちですね」
僕の前で観戦していた奨励会員のK君が、小声で僕に言った。
「どうして?」
「打ち歩詰めで・・・。詰まないですね」
「打ち歩詰め?」
しばらくして井上六段がやってきた。
「どうですか」と聞くと、井上は「谷川勝ち。打ち歩詰めで・・・」とK君と同じことを言う。
タメ明かしをするとこうだ。
6図から▲4三歩成といく。以下△4一玉▲5二金△同飛▲同と△同玉▲4三角△6二玉▲2二飛△4二歩(好手)▲同飛成△7一玉▲5一竜△8二玉▲8三香△同玉▲8一竜△8二歩▲6一角成△8四玉▲8五歩△同玉▲7七桂△8四玉(参考B図)まで、絵に描いたような”打ち歩詰め”の形。
危ない筋は他にもいくつかある。その一つが本譜の順だ。
羽生は4二で駒を清算してから▲4八飛と王手。会場から「おーっ」とファンの声。
(本局はNECショールームC&Cプラザでの公開対局だった)
▲4八飛の狙いがわかったのだろう。そう、7八の銀を抜こうというのだ。もし▲7八飛が実現すると、これは”事件”である。
だが谷川の着手は早かった。パチッと小気味よい駒音を響かせて△4七角(7図)。
一瞬、空気が凍ったような気がした。何だろう、この角は・・・。僕にも意味がわからない。おそらく大方のファンがそうだったろうと思う。
「△4七角は・・・」と井上六段に聞いたら「この順、控え室で研究してました」という返事。
「それじゃあ?」
「ええ、これで谷川勝ちです」
7図以下の指し手
▲4七同飛△5一玉▲5三香△6二玉▲4二飛成△7一玉(投了図)
まで、104手で谷川棋聖の勝ち。
読み切り
▲4八飛に△5一玉と逃げる手はあった。後手玉に詰みはないが、しかし、それだと▲7八飛で先手玉の詰めろが消えてしまう。
その▲7八飛を許さない―というのが谷川の△4七角(7図)なのだ。何というカッコイイ手なんだろう。これなら▲7八飛は利かない(△同飛成▲同玉△6九銀以下詰む)から、羽生は角を取るよりない。しかし、谷川玉はどうしても詰まない。
最終手△7一玉を見て、羽生「負けました」。会場から一斉に大きな拍手がわき起こった。9時46分だった。
K君が僕に言った。
「寒気のする終盤戦でした。きわどい順がいろいろあるのに、みんなギリギリ詰まないんですよ。”どうして詰まないんだ!”と思ってました」
羽生も同じ思いだったかもしれない。
終局と同時に、内藤九段が舞台に上がって対局者に感想を求め、それをファンに翻訳して伝えた。最高のサービスだ。
感想戦は約30分行われた。聞き手と解説はもちろん内藤九段。盤上の動きはすべて大盤に再現されたので、よく理解してもらえたと思う。
ところで、谷川はどこで勝ちを読み切ったのだろう。僕は4図の2手前、▲4四銀を△同金と取ったあたりではないか、と思っていたが、谷川に聞くと「いや、あそこでは自信がなかったです。△8六香も、こちらとしては仕方なかったですから」という答え。
谷川「勝ちを確信したのは5図。△8七歩成に21分考えているでしょう?次の△7九飛に5分考えたのは、読みを確認していたためです」
参考B図も、7図の△4七角も、すべて読み切りだったわけだ。僕もだんだん”寒気”がしてきた。
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「谷川の△4七角」として有名な一局。
5図から全てを読み切っていたとは、あまりにもすごい。
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ちょうどこの記事の最終盤の部分を書いている時(1月26日10時15分頃)、NHKの将棋フォーカス「シリーズ・プロのこの一手 ~角の妙技~」で、この△4七角が取り上げられていた。
解説は井上慶太九段。
あまりにも出来過ぎだ、と思った。
宝くじでも買いに行ってみよう。