将棋世界1992年12月号、中野隆義さんの第5期竜王戦〔谷川浩司竜王-羽生善治二冠〕第1局観戦記「ジス・イズ・ザ・将棋」より。
羽生の初手▲2六歩を打ちつける指先が震えていた、と知ったのは、開局時の写真撮影を終えた控え室でのことであった。「羽生さん、物凄く緊張していたよ」と教えてくれたのは、弦巻カメラマン。
ツルさんより記者の方が視力は良いはずなのに、同じところからの被写体を見る目が向こうの方が良いというのは不思議であるが、これがプロの目というものなのだろう。
こんな節穴の目をしていては、特派員としての任務は勤まらない。羽生の武者震いに共鳴しようと控え室のモニターを見つめる。
若さの特権
ミネラルウォーターのボトルからコップに水を注ぐ羽生の二の腕が、何か硬い物が入っているかのように、くの字型に折れ曲がっている。その曲がり具合は動作の初めから終わりまでほとんど変わらない。
谷川の肘に当たる和服の部分は丸みを帯びている。
ギンギンに気を高めている羽生と谷川の平静との対比が見事であった。
羽生はのっけから最大出力と思えるほどの気合を前面に押し出している。朝からこんなに入れ込んでは大丈夫かと思いもしたが、それができるのが若さの特権であろう。年多きものは、ともすればそこに曾ての自分を投影してしまう。その瞬間に勝負の何分の一かは終わる。
羽生の気に谷川が押されるか、はたまた押し返すか、そこにまず第一の勝負が懸かっていると見た記者は、谷川の動きをうかがった。
それでもなお
二日制のタイトル戦では、一日目の午前中から昼過ぎにかけては概ねのんびりとした空気が漂っているものである。しかし、この日は、やはり違っていた。
まだしばらくは駒組戦が続くと思われた途中図。ここで谷川は、いきなり△6五銀と銀をぶつけたのだ。
△6五銀は、後手番ながら局面の主導権を取りに行った手である。
専門的に見ると、途中図の▲5八玉は、△6五銀とくる手を用心した意味がある。▲6九玉とした形よりも▲5八玉の方が譜のような展開になった場合に、中央方面のバランスが取れている。しかし、それでもなお△6五銀と出たところに谷川の覇気がある。僅か12分の消費時間から、この手は予定で会ったことも知れる。
やったぞ。谷川はやる気満々だ。
昼食休憩直後の雷に、控え室はピリッとしびれた。
(中略)
右ひざが出ない
▲4五歩△同桂。ついに両雄は土俵際の押し合いに身を投じた。
激しく動く局面を前に、待ったの利く継ぎ盤でも確たる結論はでない。ただ、谷川の時間の使い方から見て、おそらくは谷川の読み筋ではないかという憶測はできた。
読売新聞文化部の将棋担当記者である山田、小田の両氏も、対局者の癖と仕種をよく知っていて「谷川竜王の右ひざが前に出てきたら勝ちなんですよね」と言っている。
しかし、右ひざはなかなか出ぬまま、局面は進んでいった。
ホントに勝ちか
(9図からの)△5七桂には控え室で「ゲエッ!そんな手が・・・」の叫び声が上がった。物凄く筋の悪い手だからである。何しろ自分の歩が成れるところに桂馬を打つのである、居合わせた棋士らによれば、これは、プロならば思いもつかない手なのだそうである。それじゃ、谷川は何になるのだろう。
「こんな手、読んでる訳ありませんよ。羽生君は」という島の声を受けるかのように、羽生が長考に沈んだ。
熟考24分。羽生▲7九玉に、指し手はぱたぱたと運ばれる。難解極まりないと思える局面を前に、両雄の足取りは早い。
▲2四飛は羽生の切り札。これを出す時は勝負が決する時だ。と、それは分かるのだが・・・。
本当に谷川が勝ちなのだろうか、との疑念が頭をもたげ始めた。
▲6五角と王手飛車取りに打たれ、王様を逃げる一手に▲7六角と飛車を取られたら先手玉にかかっていた詰めろが解けてしまうのではないか。そうしたら谷川はどうやって勝つのだろう。
「ホントに谷川勝ちなんですかね」と誰かが言う。どうやら勝負の行方を危ぶんでいるのは記者だけではないようだ。
現役復帰!?
控え室が騒然とする中、原田九段の声が響いた。
「谷川さんは読み切っています。何なら百万円賭けてもいいですよ。ホッホッホッ」
九段は、笑いながらつと立ち上がるとモニター画面の前から継ぎ盤へと歩み寄り(中略)以下先手玉を即詰に討ち取る順を瞬く間に披露して見せた。まさに、快刀乱麻を断つの図が出来上がったその瞬間、モニターに映った谷川の手が6四へ玉を運んだ。わざと歩を残して逃げるのが好手なのである。
思わず「原田先生、現役復帰ですよ」の声がかかる。
「ホッホツホッ」
△6四玉に、羽生はこれ以上追わずに飛車を取った。だが、「これでも即詰でしょう」と九段が頷くのを見て、控え室の誰もが谷川が勝つことを悟った。
11図以下の指し手
△6八銀▲8九玉△8八歩▲同金△7九飛▲9八玉△8九銀▲同金△同飛成▲同玉△8八銀(投了図)まで、126手で谷川竜王の勝ち。
これぞ将棋
それにしても、△6八銀とはかっこいい手があったものだ。これは、まるで詰将棋の手筋である。
△6八銀に、▲同金は△5九飛で6九の合駒が悪く、何を打っても△同桂成以下先手の玉は助からない。投了図以下は▲8八同玉△7九角▲7八玉△6九銀不成▲6七玉△6八金までの即詰。△6八銀から数えて17手の詰将棋である。
感想戦で、記者は谷川が△5七桂と打った時点で△6八銀を見ていたことを確認した。なんという読みの射程距離の長さであろうか。
お互いやりたいことをやり、戦いに戦いぬいた本局。駒がよくさばけた投了図が美しい。これぞ将棋、である。
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「谷川浩司竜王(当時)の△5七桂」として有名な一局。
対局当初から緊張感と気合いに満ちあふれていた羽生善治二冠(当時)。
今から考えるととても珍しいことだ。
3週間前に王座を獲得して勢いに乗る羽生二冠と2週間前に結婚式をあげた谷川竜王の戦い。
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この対局は、ロンドンの「モントカームホテル」で行われた。
立会人は長谷部久雄八段(当時)、副立会人が島朗七段(当時)、衛星放送聞き手が林葉直子女流五段、記録係はオランダに留学中だった飯田弘之五段(当時)。
竜王戦ツアーからは原田泰夫九段、田中寅彦八段(当時)。
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将棋マガジン1993年1月号、読売新聞の小田尚英さんの第5期竜王戦第1局・第2局盤側記「ドトーの季節」より。
BS観戦の読者に「羽生の手つき評論家」を自称する記者から参考までに。羽生が有利か勝負だと思っている時はテレビ画面で見ていても指先に力がこもるのがわかる。これで終盤の形勢判断ができる(はず)。ただし各種パターンがあり、空元気の時もある。片膝が画面に写るようだと確実。
それと顔が映っている時は、勝ちの場合の谷川の「読み切り顔」もわかるだろう。今回は「読み切り顔」が△5七桂の辺りで出た。
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中原誠十六世名人は、終盤で勝ちを読み切るとトイレに行くという癖があった。
石田和雄九段がボヤイている時は優勢な時。
森信雄七段が「冴えんな」と言いながら対局している時も優勢な時。
棋士それぞれの優勢な時の癖がわかれば、BSやニコ生でのタイトル戦中継も面白さが更に増すことだろう。
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1970年代から80年代、プロレスを見ていると実況アナウンサーが、「あっ、ジャイアント馬場のヤシの実割りです。馬場にこの技が出る時は調子がいいんです」と解説するようなことが何度もあった。
この場合は技なので癖ではないようだ。
将棋は、この辺がプロレスとは異なる。
「あっ、羽生さんに垂れ歩が出ましたね。羽生さんに垂れ歩が出る時は調子がいいんです」とはまず言わない。
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故・ジャイアント馬場さんのヤシの実割り(ココナッツクラッシュ)は、相手の頭を抱え込み、相手の頭を自らの膝に押しつけたまま足を大きく上げて、そのまま足を強く着地させる技。
足が着地した瞬間の衝撃を相手の頭部に与える打撃技だ。
これでフォールを奪えるわけではないが、相手のスタミナを消耗させたり、試合を自分のペースに引き込むという意味合いを持っていた。
将棋で言うと、相矢倉戦での細かい応酬の中、少しずつでもポイントを重ねていこうという手に該当するのかもしれない。
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よくよく考えてみると、椰子の実(ココナッツ)を原料とした食品は多いけれども、椰子の実の果肉を生でそのまま食べたり、果汁をそのまま飲んだりすることは非常に少ない。
いろいろと調べてみると、果汁はスポーツドリンクを薄めたような味、果肉はほとんど無味ということらしい。
そのままではかなり美味しくなさそうだ。
私が20歳前後の頃、自由が丘の紅茶専門喫茶店でよく頼んでいたココナッツティーが、ミルクティーをかなり濃厚にした感じでとても美味しかった記憶がある。
私にとって”椰子の実”というと、「ジャイアント馬場さん」と「自由が丘」がいつも頭の中に浮かんでくる。