先崎学五段(当時)へのラブレター

先崎学八段が、昨日の竜王戦4組、対飯塚祐紀七段戦に勝って、九段への昇段を決めた(八段昇段後公式戦250勝)。

昨日の飯塚祐紀七段-先崎学八段戦、先崎八段(当時)の角交換振り飛車から1図の局面。ここからの先崎八段の指し回しが印象的だった。

先崎ラブレター1

通常なら△4四角が自然なところ、先崎八段は強気の△3二飛!(2図)

先崎ラブレター2

角を成らせても、3筋から捌きに行くという強い方針。

以下、▲1一角成△3六歩▲4五桂に△3四飛。△3四飛は▲3三歩から押さえられるのを避けた手。

ここで▲2一馬だと、△2六銀▲同飛△3七歩成と強襲されたり、あるいは△4四歩から桂を取りに行く手があるので、後手の飛車をいじめるべく先手は▲2二馬と迫る。(3図)

先崎ラブレター3

3図以下は、△4四銀▲3九香△4五銀▲同歩△3七桂▲2七飛△4九桂成(4図)。

先崎ラブレター4

後手には△3九成桂▲同金△3七歩成の狙いがあるので、▲4六銀打と防ぐが、先崎八段の△1五角(5図)が絶妙手。

先崎ラブレター5

先手玉の間近への角成りを防ぐのが難しい状況となっている。

私のような振り飛車党が泣いて喜びたくなるような見事な手順だ。

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今日は、先崎九段がC級2組当時、9勝1敗の成績をあげながら、頭ハネで昇級を逃した時の話。

将棋世界1994年5月号、中野隆義さんの第52期順位戦最終局C級2組「棋士が太陽剣を捨てる日」より。

 「順位戦では、歩を一つ下がるような呼吸が必要である」と、鈴木輝彦七段は喝破した。

 棋士の収入は、順位戦のランクによって大きく左右される。トーナメント戦の敗戦は、その期その棋戦においての頂上へ駆け上がり行く権利を失うだけだ。期が変わればまた新たなるスタートラインに立つことができる。それにひきかえ、順位戦の敗戦は、来期は勿論のこと、棋士が生を終えるまでついて回るかもしれぬ重みを持つ。順位戦には、名誉の他に死活そのものがかかっているのだ。だから、棋士が順位戦の戦いに負けまいとして血眼になるのは痛いほど分かる。

 しかし、それを踏まえた上で、記者は、棋士に強く明るく逞しく戦うことを望みたい。棋士の棋士たる存在価値は、将棋を通して己の姿を見せることにあるのだから。嗚呼、なれど、現実はと見れば、美しく戦うことを本望として順位戦に臨んでいる棋士は数少ない。

 敵を一刀両断にする威力を秘める剣は、両刃の剣でもある。『柔』の「勝つと思うな思えば負けよ」の名文句を待つまでもなく、勝負に勝って明日に生きるための極意は、勝ちに近づこうとするのではなく、負けから遠ざかることにある。この理に従えば、両刃の剣を持つなどはもってのほか。負けまいとする棋士は、順位戦の日、必勝を目指す太陽剣を捨てる。

 そして携えるは、危うさを排する片刃の剣。順位戦に、互いに仕掛けずの千日手局が多いのはゆえなくしてではない。

 3月15日。C2順位戦は最終戦を迎えた。昇級枠3名の内の一つは、ここまで9戦全勝で突っ走った神崎によって占められ、残る二つの椅子を真田、藤井、先崎の三者が争っていた。依田-真田戦と武者野-先崎戦が東京の将棋会館で、森信-藤井戦は関西将棋会館にて戦われていた。

 夕食休憩の時点で、真田はすでに勝勢を確立していた。

(中略)

 武者野-先崎戦は、3図。

先崎ラブレター6

 熊って待つ先崎に武者野が攻撃を開始している場面。先崎の戦いぶりは、まさに順位戦向きのそれである。

 大阪は、と見れば、藤井は雄々しく戦っていた。4図は夕食休憩再開の局面。

先崎ラブレター7

 ▲7七銀と引く森に対して、藤井の次の一手には驚いた。△8三金は銀立ち矢倉の好形を自らぶち壊す一手である。

 いくら9筋から局面を動かしに出たところとはいえ、模様の良さそうに見える側の者が好んで指すような手ではない。この日から3日後、A級に上がることとなる森下は「ボクにはとてもこんな手は指せません」と控え室で唸った。△8三金以下、▲3七角△9五香▲8六銀△9四金▲5九角△8五桂▲9五銀△同金▲同角△9七銀▲同桂△同歩成▲同香△同桂成▲7七玉△7六香(5図)まで一気に進んだ。

先崎ラブレター8

 暴発とも思える過激手順であるが、5図から▲6八玉△7八香成▲同玉△8五金▲5九角△7六歩となってみると、控え室に居並ぶ棋士の面々は、一様に「後手猛烈に手厚し」の断を下した。手厚い、というのは棋士が好んで使う言葉で、具体的に勝つ手順は見えなくても容易に負けない態勢を言う。それが”猛烈”にというのだから、これはかなり優勢ということである。

 豪腕藤井の風評は耳にしていたが、これほど凄いことをしでかすとは思わなかった。久々に気持ちの良い戦いを見せてもらった。藤井の右腕には太陽剣がしっかりと握られている。両刃の剣を携えてよくぞここまで1敗で切り抜けて来たものよ、の思いが記者の胸を熱くする。

 中田宏樹という棋士がC2にいることは読者の皆さんもよくご存知のことと思う。中田の将棋も藤井と同様に、積極的に前に出て行こうとするものである。こうした将棋の作り方をすると、上位者には強いが、下位者と対した時に足元をすくわれるという危うさがある。中田が実に7年もの長きにわたってC2に居続けているのはそのためであって、この事実は記者も残念に思っている。

 だが、それと同時に、一方で、これで良いのだという清しさを中田に感じてもいる。男一匹、名声にすがることなくひたすらに己の正しき道を進まんとするのは、無上の幸かもしれぬ、と思うからである。

 中田の将棋が大舞台で立派に通用することは、3年前の第32期王位戦で誰の目にも明らかである。いつでもタイトル戦の番勝負を戦えるほどの男が、堂々とC2に居るのだ。よく、B1のことを鬼の住処と言うが、C2の深淵にはその鬼たちもたじろぐほどのものがある。

 零時近く、武者野との感想戦を終えた先崎が対局室から出てすぐの踊り場にいた。彼は勝った。控え室では、問題の森-藤井戦の検討が進められている。このような状況で、控え室の様子を知りたいと思わぬ者などいないだろう。さり気なく先崎に近づくと「まだやってます?」と彼は小声を発した。「まだまだ。かなり良かったのがおかしくなってる」「え、どっちが」「森さんが追い込んでるんだ」矢継ぎ早のやりとりの後、先崎は控え室の襖をがばと開けた。

 先崎の目の前に6図の局面が現れた。

先崎ラブレター9

 佐藤康、森内らの辣腕が健闘を重ねても結論が出ないほどの混迷を盤上は窮めている。逆転にまで至っているか否か、形勢はまったく不明である。しかし、流れを考えれば、半数以上の者が森乗りと見るであろう局面でもあった。

 数分後、二、三の者と連れ立って先崎は将棋会館を後にした。記者の手元には行き先の電話番号が記された一片の紙切れが残された。先崎は、森が勝つかもしれない局面を脳裏に焼きつけているに違いない。いったい、どんな気持ちで杯を重ねているのであろうか。

 午前1時。大阪から藤井勝ちの報が入る。結果を伝えねばならぬが、さすがに電話口に先崎を呼び出すことはできなかった。共に出て行った一人を介して、藤井勝ちを先崎に伝えてくれと頼む。

 先崎よ。君は確か、四段になりたての頃「ボクの将棋は勢いを重視する将棋です」と、師匠米長と同じ志を持つ棋士であることを宣言したはずだ。それがどうして、今は、じっと身を潜めて敵の後ろを窺うような将棋に安んじているのか。そりゃあ、正面切って戦いまくっていてはC2の壁を超える星を揃えるのが困難であることは私も知っている。君も、深く悩んだことと思う。でも、自分の志をなげうってまでようよう手に入れた9勝1敗の星で、そんな涙がちょちょ切れるようなことをしてまで手に入れた星で、それで結局上がれなかったというんじゃあ、まるでバカみたいじゃないか。

 数日後。酒場にてふと思う。最終戦の対武者野戦で、先崎が真田や藤井を上回るほどの敢闘精神を盤上にぶつけていれば、最終局に勝ったことが昇級に繋がったのではないかと。

 芹沢33歳、中原22歳のB級1組順位戦最終局。勝った方がA級昇級のキャンセル待ち1番の札を掴む、という勝負だった。7図は、芹沢-中原戦の投了図である。名局と賛美されるその将棋の投了を、芹沢は「おめでとう」の言葉でなしたという。その時点では大阪で行われていた対局の結果は知る由もないが、これだけの将棋を指したのだから勝った方が必ず上がる、という芹沢一流の論理であった。勝利の女神にお気に召されるための真実は、ここにあるのではないだろうか。

 先崎よ。かの順位戦の日に捨てた太陽剣を掴め。それで来期、もし上がれなかったら、一緒に「順位戦のバカヤロォー」と叫んで酒を飲もう。

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4図のままでも十分に模様が良いのに、そこから大胆な構想を見せた藤井猛四段(当時)、藤井四段になかなか決め手を与えず、玉を右翼に逃げまくり対向する森信雄六段(当時)。

将棋世界同じ号の神崎健二五段(当時)の「今月の眼 LOOK WEST」によると、この晩は関西将棋会館の守衛さんに東京からの問い合わせの電話が20回ほどあったという。

「先崎さん残念でしたね。東京では20人ぐらい集まって、(森信-藤井戦を)検討してはったみたいですわ」

 あまりに何度も電話がかかってきたので、守衛さんも、先崎五段と森六段の応援団の一員となってしまったようだ。

(以下略)

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芹沢流の勝利の女神論、何か、非常に説得力がある。

中野隆義さんは、この号を最後に将棋世界編集部から書籍課へ異動し、書籍編集長になる。

そういう意味では、書きづらいことも書いた、先崎学五段(当時)へのラブレターともいうべき渾身の記事だ。

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しかし、先崎学五段が昇級するのは、この翌々年のこととなってしまう。

(つづく)