真部一男八段(当時)の観戦記

故・真部一男九段は、「将棋論考」や「升田将棋の世界」など素晴らしい作品・著作を残しているが、観戦記はなかなか見当たらない。

今日は、その真部一男九段の観戦記を。

将棋世界1991年3月号、故・真部一男八段(当時)の第57期棋聖戦五番勝負第3局〔森下卓六段-屋敷伸之棋聖〕観戦記「さてはこの男、天才か!?」より。

棋士ならではの観戦記、じわじわと良さが伝わってくる。

 投了直後、頬から首筋まで紅潮させた森下が「あきれました、ひどかったです」と何度繰り返したろう。

 苦戦に耐えてようやく曙光が見えはじめた矢先の大錯覚で、勝負はあっけなくついてしまったのだ。

 名前を挙げて申し訳ないが、石田八段や田中寅八段には時々見かける光景である。

 森下君にもそういう熱っぽいところがあるのかな、と敗者の心情を察しつつもなかなかいい姿だと思いながら、眺めていた。

 1月10日、上野から新潟県、燕三条へ向かう新幹線の車中の主役は、正立会人、座談の名手、原田泰夫九段である。

 対局場の高島屋のお嬢さん二人は美人姉妹で知られているそうで、原田先生いわく「巨匠が七冠王になった暁には、原田が貴殿と美女との橋渡しをして進ぜよう」などと森下君にもちかけると、森下、目を輝かせて「是非お会いしたいものです」と如才なく答えていた。頼もしい男だ。

 原田先生が相手に巨匠と呼びかけるのは、口癖のようなもので、前夜祭でも巨匠と呼ばれた芸者衆が面くらっていた。

 さて地元の方々との親睦の宴が終わり、別室で関係者だけの二次会という段になり、森下君は冷静に自室に引きあげたが、屋敷君の方はサンケイ新聞福本さんの傑作ウラ話を「あははは、あははは」と楽しげにいつまでも聞いていて、いっこうに引きあげる気配がない。

 将棋指しは自己コントロールするものと、私は思っているから何も言わずにいたが、さすがに深夜も1時を回ると誰からともなくおひらきということになったが、あのまま放っておいたら、一体彼は何時までつき合ったのだろう。

 18歳棋聖の大物ぶりがうかがえて興味深かった。

(中略)

 こういった変化は関東の若手間ではもしかしたら答えが出ているのかも知れない。

 そういえば若手の研究について、先日衛星放送の「囲碁・将棋ウイークリー」で司会の神吉五段が「関東の若手の間では矢倉のいくつかの形については、詰みまで答えを出していると聞きますが」とゲストの谷川竜王にジャブを繰り出すと、竜王答えていわく「そうは言っても間違っていることが多いですから」との答え。温厚な竜王にしては珍しく大胆な発言であり、彼の脳裏にはひょっとしたら、森下、佐藤康、あるいは森内等若手俊秀の顔が浮かんでいたのかも知れない。そしてこの発言は、これら3人の若手に代表される研究将棋への挑戦状と受け取られなくもない。いや天下の竜王が若手に挑戦状というのもおかしな話だから、言い換えれば「君達の研究将棋はこわくはないよ」という一種のデモンストレーションかも知れない。

 いずれにしても今竜王は乗っているという感じを受けたものだった。

 さて局面に戻ろう。

(中略)

 本譜はスルスルと銀を1五まで繰り出し、後手も△7二飛から△8五桂と攻撃準備が整い、もはや攻め合いは必至の情勢である。▲1五銀にかまわず△7五歩と突いたのが屋敷の才能を如実に示す一手であった。

1991 (2)

 盤の右半分▲1五銀までの形は、これまで何百局と現れているだろう。

 しかし、ここで後手が△1四歩と突かなかった棋譜を私は知らない。

 不勉強な私が知らないと言ったって、説得力が全然ないから、局後一番に屋敷に確かめたのはこの点だった。△1四歩を突かない将棋の経験は有りや無しやと。対する屋敷の答えは拍子抜けするほどあっさりしたもので「ありません」とただ一言。

 この時、もしかしたらこの男は天才なのではあるまいかと思った。

 プロと言わずアマ強豪以上なら、この形は△1四歩と突くに決っているとしたもので、その後▲同銀あるいは▲2六銀かによって展開が異なるにせよ、そこから読むものとされていたのである。

 その常識をくつがえす発想が屋敷にはあり、それは単に相手の読みの裏をかくとかいったものとは次元が違う。

 若年にしてタイトル獲得もむべなるかなである。

 ここに知識と飛躍のジレンマがあるのだ。あまりに知識(研究)に埋没してしまうと、形になずんでこういった発想に至らないのではないだろうか。

 さて指し手は進んで4図となってみると、先手の指し手が意外なほどむずかしく、ここに屋敷の判断の正しかったことが証明されている。

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〔4図以下の指し手〕

▲6五銀△6九銀▲7七歩△5八銀打▲5七金△6四歩 (5図)

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 ▲6五銀は△6四角を抑えた手ではあるが、いかにもつらい辛抱である。

 平凡に▲4六角は△6四角となってあとがよろしくない。

 △6九銀は詰めよである。放置すれば△9七角成から△7八飛成まで。

 対して▲7七歩も何ともつらい辛抱であるg,森下にすればこれで受け止められると考えていたようだった。

 そこに直撃の△5八銀打、これには森下もびっくりしたらしい。

 相手がごめんなさいと謝っているのに、いいや許さんと言うのである。実際▲5七金とかわして何をやってくるのだろう、という思いだったのではないか。

 思えば最後の大錯覚の伏線はこのあたりから敷かれていたのかも知れない。

 △6四歩でぎりぎり攻めがつながっているのである。

〔5図以下の指し手〕

▲5四銀△5二飛▲6三銀成△5六飛 (6図)

1991_5 (2)

 △6四歩に第一感は▲7六銀であるが、それには△6六角の猛襲があり、(中略)、先手負けのようである。

 そこで▲5四銀だが△5二飛が気持ちの良い一手。▲6三銀打には△5四飛から△7八銀成で寄りである。

 ▲6三銀成に△5六飛の強手で決まったかに見えたが。

(中略)

 △5六飛は何とも強烈な一手で▲同金は△7八銀成▲同玉△6七金▲8八玉△6八金が詰めよなので後手の勝ち。

 しかし、ここであっさり土俵を割る森下ではない。

 ▲5八飛以下最善の頑張りを続ける。

(中略)

1991_7 (1)  

 ▲4二銀で後手のお蔵にも火がついてきた。

 △4五角に▲5六歩で角を呼び込み、金を取って▲7九金と頑張る。

 そこで△7六金(途中図)が本局直接の勝因となった。

 この手は森下もまったく読んでいなかったらしい。本局3度目の意表手である。最初の▲1五銀の手抜き、2度目は△5八銀打。その都度正確に対処してきた森下であったが、この△7六金という悪魔の囁きのとうとう乗ってしまったのである。

 その囁きとは後手の玉は先手の持駒に角と金駒一枚あれば、▲3二飛成△同玉に▲4三金(銀)△同玉▲2一角△3二合▲5三金までの即詰みがあるのだ。

 そこへもってきてタナボタふうの△7六金だ。

 ▲同歩△6六角に▲7七銀と打てば△8九角成の一手である。▲同玉△7七桂成となって手駒を見れば、あれほど欲しかった角と金がある。狙い筋通り▲3二飛成で即詰みだ。

 森下はこう速断してしまったのである。だが△8九角成とされて盤上から5六角が消えてみて、森下は我に返った。

 何と5九竜が5三の地点をガードしているのである。

 投了まで4分考えている。おそらく茫然自失であったろう。

 森下ほどの使い手をかくも錯乱させる18歳、この特異な才能を認めずばなるまい。

 将棋とはかくのごとく心理面の占める要素が大きいゲームであるから、観戦記等で指し手の善悪のみを示しても片手落ちなのである。

 しかし今後の研究のために申し添えれば、△7六金には▲7八銀打と固めるのが最善で、こうなれば後手が勝ち切るのは容易ではなかったろう。

 とまれ二人の激戦を最終局まで見たいものである。

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普通なら「棋聖位を獲得した暁には、原田が貴殿と美女との橋渡しをして進ぜよう」だと思うのだが、森下卓六段(当時)に原田泰夫九段は「「巨匠が七冠王になった暁には、原田が貴殿と美女との橋渡しをして進ぜよう」。

高島屋」の美人姉妹のお嬢さんが、かなりの高嶺の花であったことがわかる。

この当時の女将であった高島和子さんは、ご高齢でありながらもブログを書かれている。

和子ブログ

素晴らしいことだと思う。

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真部一男九段の「将棋とはかくのごとく心理面の占める要素が大きいゲームであるから、観戦記等で指し手の善悪のみを示しても片手落ちなのである」は非常に深い言葉だ。