順位戦が終わった夜と早朝のホストクラブ

将棋世界1996年3月号、先崎学六段(当時)の「先崎学の気楽にいこう」より。(昨日のブログ記事の翌々年のこと)

1月某日

 順位戦で桐谷六段と対戦した。千日手指し直しの末、どうにか勝つことができた。あと二番である。

 将棋連盟を出たのは午前2時半だった。最後までいた記者の加藤さん(通称スカ太郎君)とタクシーをつかまえにトボトボ歩く。スカ君「あれから1年ですねえ」

 そうだ。あれから1年たつのだった。

 1年前の震災の日、僕は順位戦を負けて、同じく負けた深浦君とスカ君の三人で、飲み明かしたのだった。6時過ぎに店を出て、もう飲めるところがなく、仕方なく、一軒だけ開いていたあやしげなオカマバーでさらに飲んだ。辛い夜だったが、スカ君が覚えていてくれたのが妙に嬉しかった。

 だからいきつけのオカマバーに行った。

 勝ったし、疲れていたのでゆっくり飲んだ。1年前の自分と今の自分では、立場も地位も同じだが、なにかが違うんだ―将棋に勝った夜ぐらいそう思いたかった。

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1999年に刊行された別冊宝島440「将棋これも一局読本」の、遊駒スカ太郎さんの「棋士と将棋記者のナンギな生活」より。

 とにかく、半人前ながら将棋記者らしい仕事をするようになり始めたのである。

 対局を取材することが多くなり、タイトル戦の取材にも行くようになった。

(中略)

 将棋も素人なら、文章も素人、そんなばかなと人は思うかもしれないが、なぜか当時のオイラは自信だけを武器に将棋記者としての仕事をやっていたのであった。

 取材後にいろんな棋士と飲みに行くようにもなった。そのなかでも、どうしても忘れられない夜がある。

 1995年1月17日、C級2組順位戦。

 忘れもしない、関西で大震災があった日である。

 感想戦もすべて終わり、日付けも変わった午前2時過ぎだった。

 先崎学、深浦康市、そしてオイラの三人はトボトボと将棋会館を後にした。なんでトボトボ後にしたかというと、昇級戦線に絡んでいた二人が、ともに負けてしまった夜だったからなのである。

 阪神・淡路大震災がどれほどの被害をもたらし、どれだけの人命を奪っているか、ということを、順位戦を戦っていた先ちゃんと深浦さん、そして取材していたオイラの三人はまだ知らない。

 その日の黒星は、二人にとって昇級絶望となる致命的なものだった。

 外に出る。真冬の午前2時過ぎの空気が肌を刺した。二人とも悔しさを噛みしめているのか黙ってトボトボと歩くだけで、まるでお通夜に行くみたいだった。オイラは負けた棋士と飲みに行ってもわりと平気なほうなのだが、この日ばかりはなんだか辛い気分だった。

 こんなとき、鎮痛剤としてお酒をたくさん飲んでも文句は言われないだろう。三人で飲みまくった。

 午前6時、もうやっている店がないという時間帯になってもおさまらない三人は、根性でホストバーもどきの怪しげな店を発見した。

 男三人がホストバーに行くというのも不思議な図だけれども、オイラたちにとっては「飲ませてくれるんならもうなんでもいいんだもん」という感じだった。

 先ちゃんが明け方まで飲むというのは珍しくないことだが、いつもなら冷静に帰ってしまいそうな真面目タイプの深浦さんもこの日ばかりは最終最後まで飲むのだ、とヤケクソっぽくなっていた。九州男児の深浦さんは、もともとお酒が強いのであるけれど、この日はやはり気持ちがおさまらないのか、いつもの深浦さんとは違っていた。

 ホストバーもどきの店は、午前0時オープン、午前8時に閉店という店だった。きっと仕事明けのホステスさんをターゲットにしているのであろう。

 ホストさんはオイラたち男三人を前に、なんか調子狂うなあという感じだったが、客は客である。よそよそしくオイラたちに水割りを作ってくれた。

 お客さんはオイラたちのほかに、おねーちゃんが一人だけだった。そのおねーちゃんがカラオケを歌いだすと、オイラたちのテーブルについているホストのにーちゃんは渾身の力を込めて手拍子を打った。その手拍子というのが横綱の土俵入りみたいで、水平に大きく腕を広げ、そこから力一杯に手のひらを打つのである。

 オイラたちも「もうヤケクソやけんね」状態に突入しており、ホストのにーちゃんの真似をして手拍子を打ってみた。けれども、この手拍子はとてもハードですぐにゼイゼイと息切れしてしまうくらい疲れるのである。それに手のひらが熱くなり、すぐその後には痺れがやってきて、とても一曲もたないのである。

  しかし、ホストさんはおねーちゃんが歌っている間、休むことなく手拍子を打つのだ。「手のひらは大丈夫ですか」とホストさんに聞くと、「いやあ、もう皮が厚くなって……」と笑いながら答えた。触らせてもらうと、手のひらは鉄板みたいだった。ホストさんというのもたいへんな商売なのである。

 その話題がすむころにオイラたち三人は疲れてきたのか、妙に黙りこくってしまった。

 オイラはホストのにーちゃんってけっこうたいへんだなあ、ということを知ると同時に、将棋に負けてしまった先ちゃんと深浦さんの姿を見て、将棋指しもたいへんなんだ、という思いで頭の中がいっぱいになっていた。

 ふと、オイラはどうなんだ、と思った。

 なんだかそのなかでは人生の見通しがいちばん立っていないアルバイター(註:この頃のスカ太郎さんは週刊将棋でアルバイトをしていた)のくせに、オイラがいちばんたいへんじゃないような気がしたのだ。

 オイラもたいへんなんだ、と思おうとした。

 けれど、先ちゃん、深浦さんの将棋に賭けている人生に比べると、オイラのアルバイター的生き方はなんだか情けないもののような気持ちが襲ってくるのであった。

 オイラはそれ以上考えるのが怖くなった。

 それ以上考えると、自分のこれまでの人生に烙印を押しかねない、という恐怖感が起こったためだった。だから、オイラは考えることをやめて水割りを飲みながらボーッとしていることにした。

 おねーちゃんがまたカラオケを歌い始め、ホストさんが元気よく手をたたき出した。

 先ちゃんと深浦さんは、まだそれぞれの物思いに耽っているみたいだった。

 そんな二人をオイラはぼんやりと見つめていた。考えることが怖かったので、ただひたすらぼんやりと見つめていたのだった。

 喧騒のなかにあって、それは不思議と静かな空間のような気がした。

(以下略)

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将棋世界1996年5月号、先崎学六段(当時)の「先崎学の気楽にいこう」より。

 3月某日―この日はハレの日である。順位戦C級2組の最終戦。何年このクラスにいたことだろうか。

 ずいぶん前に、9戦目で、森内君と7勝1敗同士で決戦をしたことがあった。2月の寒い日の朝、何故か窓がかすかに開いていて、すき間風が絶え間なく流れて来たが、二人とも閉めることを忘れていた。

 彼は、今年名人挑戦者として檜舞台に立つ。あの時の結果が逆だったら今頃……とは思わないが、忸怩たる感情、たまりたまった憤懣は胃の下から右奥の肝臓にかけて伸縮を繰り返しつづけた。

 時にはあおれが、胃を超えて、喉のところまで押し戻してくることもあった。すなわち、声に出そうなことが―。しかしそれは詮無いことだった。叫べば、必ず叫んだだけ蔑まれる。口惜しいと言える人間は仕合わせである。僕に出来ることは、常に声なき声を出しつづけることだけだった。

 それから数年、僕はいつもあと一歩で昇級を逃した。その度に、順位戦だけが棋戦ではないと分かっていながらも、軽く、やめちゃおうかなあ、と考えることがあった。棋士をというよりも、将棋を勝つことが喜びであるとする自分の心をやめてしまおうかと考えた。悩んで、いや悩んだつもりになって、保守的な傾向を持つようになったら、その場において、どれだけ楽なことだろう。僕は若い。まだ20代である。若い棋士が、考え方を保守的にするということは、精神が自殺をするようなものだ。願望こそあったが、実際に首を吊る勇気はなかった。

(中略)

 2年前に佐瀬勇次先生が亡くなった。佐瀬先生は、若い頃、10年近く兵隊に行った。それから考えると、自分が、たとえ10年C2にいたとしても、戦争に行くことを思えば鼻クソみたいなものじゃないか、5年無駄を積んだのなら、リタイアするのを―守りに入るのを5年遅くすればいい。ある日突然ではない。少しずつ、本当に少しずつそう思うようになった。

(中略)

 1年ちょっと前だろうか。その頃から、やはり少しずつ、心が軽くなっていった。それと同時に酒の量も減り、体も楽になっていった。自分の中で、自虐的な発想が一枚一枚、まるで薄皮を剥がすようになくなっていくのが、気持ち良かった。

 去年の1月、僕はまたしても順位戦で上がり損なった。さすがにショックは大きかった。1月17日、丁度阪神の地震の日だった。次の日、テレビをつけると、真っ赤になった神戸の街があった。棋士や友人で、まだ行方のわからない人もいた。地元の街を歩くと、今まさに夕日が沈むところで、ビルが赤く染まりさっきまで見ていたテレビ画面のイメージに重なった。あわてて家に帰り、ずっと泣いた。

 気持ちの整理がつくや、僕にしては非常に珍しいことだが、負けた将棋を並べ返してみた。冷静な目でみると、どうしようもない将棋だった。駒が萎縮しきっている。僕の駒は、情けないくらいに生命感を持たず、後ろへ後ろへと沈むように下がってしまうのだった。

 これではいけないと自分なりに考えた結果、あれこれ悩むのは面倒くさいので、開き直ることにした。あと半年―夏が終わるまで、将棋のことで、難しいことで悩むのを一切やめてみようと思った。

 具体的にいうと、定跡形なら、基本的な知識があり、先手番だから上手くいくが後手番では上手くいかないということをいっぱい知っているわけである。そのうえで手を読む。これが普通のやり方である。それを敢えて、知識を忘れ、局面を俯瞰的に見て、手を読まずに指してみようと思った。有り体にいえば、こう指したいな、と思った手を必ず指すことにした。

 負けても半年はつづけようと思ったが、おかしなもので、却って勝率が上がった。駒に勢いがつき、魂がこもったからである。竜王戦で勝ち進み、遂に挑戦者を決めるプレーオフまでいった。僕は竜王になりたいと思った。

(中略)

 力およばず佐藤康光君に負けたが、負け惜しみでもなんでもなく、爽快な気分だった。自分の信念通りに好きなように指せたからだ。取り戻した自信は計り知れなかった。

 勝って悩んだ人間が、数年後は、負けても爽やかにいた。」なんという違いであろうか。

 もっとも、手を読まずに、いい加減に指すことは、すぐ辞めた。こんなことが長続きするわけはない。それは分かっていた。何故あんな風に開き直れたのか、半年もたった今では不思議に思えて仕方がない。

 9回戦が終わってから、最終戦までの1ヵ月は、実に長く感じられた。出来るだけ出掛けることをやめ、家に居るようにした。こんあことははじめてだった。勝ったら嬉しいなとは思わなかった。負けたらどうしよう―そればかり考えていた。このような気持ちになるのも、きっと僕にははじめてだった。

 それが、三日ぐらい前から、不思議に気持ちがおだやかになっていった。

 いよいよ当日がやって来て、僕はいつになく落ち着いていた。前日は燗酒をきゅっとやって12時に寝たので睡眠も十分過ぎるほどだった。

 やけに胸がドキドキしたのは、駅を降りて、将棋連盟まで向かう道でのことだった。僕はことさら空を見上げて歩くようにした。今日はお祭りなんだといいきかせた。

 終わってみればあっけなかった。棋士になってから、最高の将棋を指すことができた。相手が投了した瞬間、全身の力が抜けていた。

(以下略)

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奨励会を抜けるまでも厳しいがけれども、プロになってからも厳しい棋士の世界。

全編、胸を締め付けられるような感じだ。

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何かで読んだ記憶があるのだが、先崎学六段(当時)、深浦康市五段(当時)、スカ太郎さんが1996年1月18日の早朝まで飲んでいた場所は中野だったと思う。

中野の街に飲み屋は多く、なおかつこの当時は、焼肉店、キャバクラなどの超激戦区だった。

ホストバー(ホストクラブ)が中野にあったということは、スカ太郎さんが書かれている通り、キャバクラ(多くは午前5時まで営業をしていた)の勤めを終えた女性をターゲットとしていたということなのだろう。

ちなみに、中野にはじめてキャバクラができたのは1989年のこと。

「フローレンス」という名前の店だった。

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