4月5日は、升田幸三実力制第四代名人の命日だった。
将棋世界1992年10月号(大山康晴十五世名人追悼号)、故・倉島竹二郎さんの「二人の名人」より。
升田も大山もまだ八段時代のことだが、あるとき、私は偶然升田、大山と一緒に同じ部屋で寝たことがある。何かの会で三人が落ち合い碁を打とうということになっていて知っている宿舎に出かけたのだが、碁を打っているうちに夜が更け、やむを得ずそこで枕を並べて寝ることにしたのだった。大山はすぐスヤスヤと寝息を立てたが、升田は私と久しぶりに会ったので、いろいろと話し合った。そのとき、ふと大山の寝顔に愛憎入り交じった複雑の眼を向けた升田が「大山君はそのうち必ず名人になる男ですよ」といった。私が「それで升田君、君は?」ときくと、升田は「さあ、私はね―」と、口ごもって淋しげな微笑を浮かべた。それから暫くして「雷電為右衛門は怪力無双といわれながら横綱は張れず仕舞でしたね。私も昭和時代に升田という強い将棋指しがいたというだけで、名人にはなれぬかもしれませんな」と、しんみりといった。
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大山康晴十五世名人が八段になったのが1948年、初の名人位を獲得したのが1952年のことなので、1948年から1951年の間の頃の出来事だ。
倉島竹二郎さんのこの文章は、将棋世界1960年1月特別増刊号に書かれたものの抜粋で、大山康晴名人が名人通算6期、升田幸三九段(当時)が名人通算2期のタイミング。
そういう意味では、升田の予言通り大山が名人になったし、升田も昔はあんなことを言っていたけれど名人になったし、升田にもチャンスがまだまだあるので永世名人も狙える、という状況の時に、10年ほど前の大山・升田の二人を回想しているというもの。
升田幸三八段(当時)らしくない素直で弱気すぎる発言に見えるが、升田幸三八段は病気がちの体であったことから、冷徹なまでに自分を客観視していたとも言えるだろう。
この倉島竹二郎さんの文章を読むと、何か感傷的な気持ちになってくる。
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森内俊之名人は、一昨日の名人戦前夜祭で「名人戦で9回戦った大山―升田戦に並んだ。その対局に負けないような対局にしたい」と語ったという。
大山-升田の名人戦は次のような戦績だった。
1953年 大山康晴 4-1 升田幸三
1954年 大山康晴 4-1 升田幸三
1957年 升田幸三 4-2 大山康晴
1958年 升田幸三 4(1持)2 大山康晴
1959年 大山康晴 4-1 升田幸三
1963年 大山康晴 4-1 升田幸三1966年 大山康晴 4-2 升田幸三
1968年 大山康晴 4-0 升田幸三
1971年 大山康晴 4-3 升田幸三
大山康晴十五世名人の7勝2敗。
一方の、森内-羽生の名人戦の戦績は、
1996年 羽生善治 4-1 森内俊之
2003年 羽生善治 4-0 森内俊之
2004年 森内俊之 4-2 羽生善治
2005年 森内俊之 4-3 羽生善治
2008年 羽生善治 4-2 森内俊之
2011年 森内俊之 4-3 羽生善治
2012年 森内俊之 4-2 羽生善治
2013年 森内俊之 4-1 羽生善治
2014年 今期
森内俊之名人の5勝3敗。
大山-升田戦も森内-羽生戦も、18年間で名人戦を9回戦っており、意外なことに、回数も年数もここまで一緒ということになる。
大山十五世名人と升田実力制第四代名人は、5歳年が離れているものの、誕生日は3月13日と3月21日で8日違い。
森内名人と羽生三冠は、同学年で、誕生日は10月10日と9月27日で13日違い。
それぞれの二人の名人が、それぞれ誕生日が近いというのも共通点。
無理な話とはいえ、この4人の総当り戦があったなら、本当に感動すると思う。