将棋世界1994年6月号、野口健二さんの第52期名人戦〔羽生善治四冠-米長邦雄名人〕第1局観戦記「名人位と独創への挑戦」より。
最近の羽生は、定跡形でない将棋を指すことを標榜し、実践している。将棋というゲームが秘める無限の可能性を自らの手で開拓し、その証となる棋譜を後世に残すのが目標であるという。そのためには、リスクを背負ってでも新しい形にチャレンジするという姿勢は、勝負にこだわる若手の代表格と目されてきた羽生が、確かに変貌しつつあると感じさせる。
そして、戦前の予告通り、先手の作戦は矢倉でも相掛かりでもなく5五歩型の中飛車。実は3月下旬の銀河戦・大内-森内戦でこの形が指され、解説を務めた羽生は「なかなか優秀な戦法なんですよ」と語っている。羽生自身、過去に2~3局同形の将棋を指した経験があるそうで、予定の作戦。名人が意表を衝かれたかどうかは不明だが、形が決まり、両者の指し手は早い。
1図で、羽生が本局で初めての長考に入った。昼休を挟み75分で▲1六歩。
(中略)
2図の局面で控え室の継ぎ盤では、有森浩三六段が副立会の坪内利幸七段と▲6八飛と回る手を研究していた。そこに現れた本局の立会で大山名人記念館館長でもある有吉道夫九段が「君たちは乱暴者やなあ。▲7八飛が筋でしょ」と、師匠のきつい一言。▲6八飛は、△2四角と出て4六の歩を狙われ先手が面白くないようだ。
(中略)
一日目の夜、羽生が出演したNHKの「にんげんマップ」という番組が放送された。和服で登場した羽生は、いつになく饒舌とも感じられる語り口で、自らの勝負や将棋に対する思いを明かしていた。
「追い詰められた場面こそ、棋士の醍醐味。苦しいけれど、楽しい時間」
「プレッシャーがかかるのは、まだ自分がその器(状況)にあてはまらないから」
翌朝、たまたま対局場のエレベータで谷川と一緒になった。途中から見たという谷川に、昨日の番組が三日前に収録されたことや、羽生の饒舌ぶりについての感想を聞くと「どうもAB型はわからんなあ」。同じAB型の名人によれば、女性は放っておかないタイプだそうだが。
その谷川は前夜、ある関係者に「名人戦に出ている頃には思わなかったが、今回は本当に対局者の席に座りたかった。でも、そう思った時には、なかなか出れないものなんですね」と洩らしたという。今の羽生の姿に、10年前の自分を思い起こしているのだろう。
(中略)
3図以下の指し手
△6三飛▲7六飛
角を追いつつ▲8四飛回りを消して当然の一着と見えた△9四歩が疑問手。そして△6三飛が決定的な敗着となった。
局後、米長は「指す手がわからなかった。△6三飛は一手パスの一番まずい手でしたね」と悔やんでいたが、ここは△4五歩か△5四歩が有力だった。
△6三飛で△4五歩に▲同銀なら、△同銀▲同歩△8三銀の飛車角両取り。
また、△4五歩に▲同歩は△5五銀▲同銀△同角で、▲4六銀なら△6四飛(A図)がある。
この△6四飛は継ぎ盤で村山七段が発見した手だが、感想戦でこの手を指摘された瞬間、羽生は「アアッー、飛車!」と思わず声を上げ、米長は「素晴らしい手だね」と言った。以下、▲同飛△同角▲7四歩でいい勝負。
(中略)
約1時間後の感想戦が終わり、両者の去った対局室で、床の間の「盤上在天地」と書かれた掛け軸をあらためて眺めていると、昨日のテレビで、羽生が将棋の面白さについて語った比喩を思い出した。
「たった40枚、81枡の狭い中なのに、海の真ん中のような視界の開けた所で、あー広いな、人間て存在はちっちゃいな、とそういうことを感じる。人間では全然わからないなと」
(以下略)
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20年前の名人戦第1局。
この時の名人戦で、羽生善治四冠(当時)は名人位を獲得することになる。
出だしは、今年行われた電王戦第1局、菅井竜也五段-習甦戦とやや似たような雰囲気。
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有吉道夫九段の「君たちは乱暴者やなあ。▲7八飛が筋でしょ」。
格好いい言葉だ。
実際に、羽生四冠は2図から▲7八飛と指している。
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谷川浩司王将(当時)の「どうもAB型はわからんなあ」も絶妙だ。
谷川浩司九段はO型。
羽生四冠が「アアッー、飛車!」と思わず声を上げてしまうほど驚く△6四飛を発見した村山聖七段(当時)もAB型。
米長邦雄名人(当時)もAB型。
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羽生善治四冠(当時)の、「プレッシャーがかかるのは、まだ自分がその器(状況)にあてはまらないから」は、かなりの名言だと思う。