将棋世界1992年9月号、鈴木輝彦七段(当時)の「対局室25時 東京」より。
記者室に顔を出すと数人の棋士に「森下さん、昇段おめでとうございます」と森下君がお祝いを言われていた。
「何で上がったの」と私が訊いたのには理由があった。つい最近六段に上がったばかりだから普通の昇段規定は思いつかなかった。
前期の竜王挑戦が対象になったのかととっさに思ったのだ。羽生君も確かそれで昇段している筈だ。ところが、何と昨日勝って六段昇段以来150勝したとの事だ。
四段昇段からきっちり370勝で、順位戦や特別昇段の恩恵に一度も浴してないのが彼らしいといえばいえる。
一歩一歩着実だが、年50勝以上勝つ人には物足りない規定なのかもしれない。特に嬉しそうにしてなかったのはその辺の事があるからだろう。
3階の事務室で一仕事済ませて控え室にもう一度顔を出すと中原名人がみえていた。
こちらの方は1000勝しても名人を15期獲ってもタイトルを失えば九段のままだから少し変な気はする。
将棋界は驚く程上位者が不満を言わない世界なのだ。
「半仕事ですか」に「そう半仕事」と笑って言った。半とは署名とか解説の仕事と勉強の半々の意味だ。
名人戦も終わったので、何人かで食事をする打ち合わせをした。
その中の共通して知っている女性(人妻)は防衛と聞いて泣き出してしまったそうだ。
将棋には不案内で「これでもう暫くはいいんでしょ」と安心したように言ったのだが、来年もあると訊き「私、もう嫌です」と再び泣いたそうだ。ファンとはありがたいもので、結果を自分の事のように心配してくれるのだ。
ありがたいといえば「棋聖戦を研究しましょう」と名人が言ってくれた事だ。
夕方からは2階の道場で棋聖戦の第4局を解説する仕事があったのだ。
「強ければしなくていいけど」はよけいな一言ではあったが。
(以下略)
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この期の名人戦は、中原誠名人が高橋道雄九段の挑戦を受け、出だし2連敗、第4局を終えて1勝3敗のカド番となってしまった。その後、中原名人が3連勝して4勝3敗で防衛。
中原名人のファンの女性が防衛と聞いて泣き出してしまったのは、とても気持ちがわかる。
「これでもう暫くはいいんでしょ」、「私、もう嫌です」。
戦地から帰って来た夫あるいは息子が、また来年、戦地へ赴かなければならないことを聞かされた妻あるいは母のような思いだったのだろう。
本当にありがたいファンだと思う。
しかし、この翌年、中原名人は米長邦雄九段(当時)の挑戦を受けて敗れてしまう……
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今日は、東京・将棋会館道場で名人戦第4局大盤解説会が行われる。
解説は中原誠十六世名人、佐藤秀司七段。
プロジェクター操作は勝又清和六段。
中原十六世名人が引退後、初めての将棋会館道場での大盤解説会であり、とても素晴らしいことだ。
今後も中原十六世名人の登場の機会が増えてくれれば嬉しい。