升田幸三-石原慎太郎対談

近代将棋1991年6月号(升田幸三実力制第四代名人追悼号)、「升田対談・ピックアップ」1968年新年号、ゲスト:石原慎太郎氏より。

升田 政治は若い人にやらさなきゃあ駄目ですよ。ぼくは将棋連盟の役員は30何歳でやめたんです。自分一人が将棋指すのも容易でないのに多くの人の面倒は誤りがおきる。ただし経験があるから、わからんときは来い指図はせんからお前らやれ。

石原 いつまでも年寄りがしがみついてるのは絶対にいかんですね。といって、このごろの若いやつも怠慢だなあ。(笑)寝っ転がってブツブツいう、ものを軽蔑してるくせに何にも動こうとせんですよ。

升田 権利主張をするでしょう。

石原 それだけです。(笑)

升田 ぼく流にいえば、権利というのは銀行へ百万円預けて、その分は権利だが、預けてもいないくせにおれになぜ百万円貸さんかというのがいるんですよ。それは無茶苦茶ですよ、権利というのは貸方に回ってはじめて権利がある。

石原 今どきの若いやつ、ぼく自身を含めてね、なにやっても駄目だとか、社会のカベが厚いとかいうのはタワゴトに過ぎんと思うんですよ。これはいかんぞ、なにかグズグズいう前に自分自身が身命を賭してやってみて駄目なら絶望もいいですけどね、戦ってもみないでそういうことじゃいかんと思いましてね。

升田 学生なんですがね。先生、十日かからなけりゃあ読めんものを三日で読め、といわれたらどうするんだ、というんですね。読めるより読めんより、まず読んでみい、訓練すれば一日で読めるようになるかもしれん。将棋でも五日もかかって十手も読めんものが、馴れると見た瞬間十手二十手、三十分ぐらいで千手も読めるようになるんだ。訓練によるんだ、なにを言うかと言ってやりましたがね。やってみもしないで、これは出来んという若い者がふえてきていますよ。

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この対談が行われたのは1967年の11月か12月と思われるので、升田幸三九段(当時)が49歳、石原慎太郎さんが35歳の頃のこと。

二人はとても息が合っているように思える。

石原慎太郎さんは、この7~8ヵ月後、参議院選挙(全国区)で初当選することになる。

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決して息が合っていないわけではないのだけれども、豪快な升田流が出なかった対談。

近代将棋1991年6月号(升田幸三実力制第四代名人追悼号)、「升田対談・ピックアップ」1967年新年号、ゲスト:佐々木更三氏より。

故・佐々木更三さんは1900年生まれで宮城県出身。日本社会党の委員長などを務めた社会党左派・労農派の重鎮。愛嬌のあるズーズー弁とキャラクターで、支持政党には関係なく、多くの人から人気があった。

升田 将棋もだんだん技が向上いたしますと、あとはもう大局観以外にはないですよ。そして大局観をもっとスムースに進行させるには、調和というものを考えるということが、大切になってくるわけですね。調和のないものは結局だめですよ。部分的には勝っていたと思ってもゆれがもどってしまうのですよ。だから調和のないものはだめですね。ところが調和をもっておりますと、先にゆけばゆくほど、よくなるわけですね。

佐々木 なるほど。

升田 というのは、調和の解釈ですが、調和というのは、将棋の場合には、各駒々のチームワークということですよ。チームワークのないものは、調和とは解釈できないわけですよ。

佐々木 たしかにそうでしょうね。それはわれわれの政党の世界でもそうだし、社会全体がそうじゃないですか。だから必ずしも経済学者だからといって、会社の経営がうまいとは限らないわけで、一流の経済学者をつれてきたから、五割配当ぐらいできるかというと、そうではないわけで(笑声)、やはり部分的にはどんな優秀な能力をもっておっても、全体としての調和がなければ、結局はだめなわけですね。

升田 その通りですよ。

佐々木 その点でおもしろいのは、私は角だと思うのですよ。角の頭に歩を打つと、角はにげなければとられてしまうでしょう。だから角は非常に大きな能力はあるけれども、頭に歩を打たれると、やられてしまうのだから。

升田 歩にとられるわけですね。

佐々木 歩に負けるでしょう、だからおもしろいと思うのですよ(笑声)。これは人間社会においても同じで、学者だけが最優秀じゃなく、農民だけが最下級じゃないということの、なによりの証拠じゃないかと思うのですよ。それは王様だって同じで、王様は全体の総司令官だけれども、自分の囲りしか動けないわけですね。

升田 香車や桂馬のまねはできない。

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豪快な升田流は出てはいないが、将棋に関して非常に深いことが語られている。佐々木更三さんの労農派的な視点にもピッタリと来ていたようだ。この時の升田九段は、ホスト役に徹して、相手からうまく話を引き出すことに力点を置いていたのかもしれない。

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私が中学3年の時の修学旅行は日光・東京の二泊三日だった。

東京の二日目に国会議事堂がコースに入っていた。

今でもそうなのかどうかは分からないが、当時は修学旅行で国会議事堂へ行くと、地元選出の議員が案内役を務めてくれることになっていた。

その時は、佐々木更三さんが笑顔で出迎えてくれた。

佐々木更三という名前を久々に見た時、修学旅行の日のことを思い出した。

昔はいろいろな個性豊かな政治家がいたのだと思う。