森信雄六段(当時)「珍しいぐらいええ子でな。だからちょっと心配やなあ」

将棋世界1995年3月号、大崎善生編集長(当時)の「編集部日記」より。

1月17日(火)

 朝、電話が鳴った。森信さんの奥さんから。「地震がありまして、家族全員無事だと先生に伝えて下さい。これから船越君の救出に向かいます」。全員無事?

 船越君の救出?奥さんは家の状況、マグニチュードの大きさなど必要なことを手短かに的確に伝えると慌てて電話を切った。そして、テレビをつけて阪神圏以外の殆どの人達がそうであるように、私も地震のことを初めて知った。森さんは順位戦で東京にいた。

 神戸、大阪方面とは連絡がつかない。しかし、一人また一人と、棋士達の無事が確認されていく。尼崎の神吉五段は歯が折れ、手足を血だらけにして、3時間かけて対局のためタクシーで連盟に辿りついた。家ん中はもうムチャムチャや、笑わなしゃーないでえ。

 家族無事の報を森さんに伝えた。森さんは対局そっちのけで、必死に関西と連絡を取ろうとしたがままならない。いやな予感がして昨夜は午前6時ぐらいまで寝つけなかったという。「ワシは動物やからなあ」とこわばった笑顔をみせた。

 順位戦は午前0時を回り、森さんが悪い将棋を引っくり返した頃に、懸命に情報収集にかけ回っていた関西本部の堀田さんから悲報が届いた。

「九州からどうしても出てきたいいうんで、ほんなら3級になったら出てきてもええいうたんや」

 2年ぐらい前に森さんは私にいった。

「珍しいぐらいええ子でな。だからちょっと心配やなあ」とも。

 船越君は師匠に出された条件をクリアし、そして師匠のマンションから歩いて数分のところにアパートをかりた。こんな近くにこんでもええのに、といいながらも森さんは嬉しそうだった。

 昨年の夏、私は宝塚の森邸へ遊びにいった。森さんは弟子たちを家へ呼び私に紹介してくれた。船越君の名前は森さんから何度も聞いていたが、会うのは初めて。本当に素直な感じのいい子だった。

 鉄板焼パーティーとなり、随分と残ってしまった。「残したらあかん、もっと食べな」という森さんの言葉に、もうお腹一杯なのに、船越君は目を白黒させて次々と肉を口に運んでいった。その姿が忘れられない。最後まで頑張った。

「船越君、冴えんかったな」。順位戦を終え森さんは午前2時30分頃私の部屋にきた。棋士を目指し、奨励会員として死ぬことが、どれ程につらいことか、お茶を汲み、棋譜をつけ、あの席に座ることを夢みながら死ぬことが。

「もう弟子はとらん」と森さんは何度いっただろう。「天災だけは仕方ないよ」と慰めにもならないことをぶつぶついうしかなかった。

 船越君、あの夜森さんは、君の事を思い、深い悲しみに耐えていたよ。帰るに帰れないもどかしさに体をぶるぶる震わせながら。それだけは伝えておくよ。

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将棋世界1995年4月号、森信雄六段(当時)の連載写真エッセイ「風景」より「空白の一日」。

 現実から遠去かろうと思ったわけではないが、ほんの一日、地震という言葉を忘れたくなり、天王寺動物園へ行くことにした。

 白クマが無邪気にボール遊びしながら、プールにパシャッと飛び込む。

 じっと眺めていたが、なぜかカメラを取り出す気がしない。くもり空で膚寒い天候。

 巨大な象がノッソノッソ歩いていた。そのあどけない目を見ていると、愛らしい。

 ひつこく象を追い掛けていると、ふと二匹の象が大きな鼻をからませてラブコール。

 私の目の前のシーンだった。

 キリンの大きな瞳を撮ろうとしたら、のそっと顔が近付いてきた。キリンの首はとても機敏で、エサがないとなるとすぐ引っ込む。

 もう二十年も前、奨励会の頃にも、行き処がなくなると私はよく動物園に通った。

 ライオンとらくだとペンギンが、その頃から大好きだった。

 一匹のペンギンが仲間につっかかってケンカをしていた。舞台の芸人のように、穴に引き下がる姿もユーモラスだった。

 少し背の高いペンギン達が何を考えているのか全員、空を見上げて突っ立っている。

 らくだの目は澄んでいる。食べ物を何度も何度もかむ素ぶりは、悠々たるものだ。

 カメラを向けると、知ってか知らずか、さっと背を向けられた。

 雄ライオンがいない。雌ライオンばかりだが、実際の狩も雌ライオンが主役らしい。

 もともと動物達は、自らの生と死をかけ、生きることに執着していたはずだ。

 オリの中ではそうもいくまい。のんびりとした、曖昧な平和のけだるさがある。

 

 阪神大震災で、私の家の近くに住んでいた弟子の船越隆文君が亡くなった。

 それを知らされたとき、一瞬、頭が空っぽになった。言葉を失う。何も書けない。

 福岡県大野木市でのお通夜のとき、お母さんにお詫びした。それしかできない。

 船越君は眠ったような表情だった。ほっぺたが、冷たかった。

 前日の朝、私が東京に立つ前、たいした用事でもないのに家まで来てくれて、玄関で見送ったのが最後の姿だった。

 船越君が棋士になるかどうかは、おそらく私が師匠としての役目を果たすかどうかがその生命線だと思っていたので、いつも小言しか言わなかったように思う。

 やさしすぎるくらいの性格だったので、それが心配だった。素直ないい子だった。

 お母さんは、宝塚に大切な息子をやったことを悔いているだろう。それがつらい。

 船越君の無念を思うと、生きている者のごうまんさと無力感をかみしめる。

 これが運命だとしたら、憎みたい。

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このブログを始めて以来、引用文を打っているうちに涙が溢れてくるようなことが何度かあったが、今回は、今までで一番泣いた。

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森信雄七段は、1月17日を「一門の日」と決め、船越隆文さんを追悼する日としている。

今年は、船越隆文さんのお母様が宝塚に来られるという。

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