近代将棋1999年2月号巻頭グラビア「素顔の棋士 藤井猛竜王」より。
4連勝で竜王位についた藤井新竜王を自宅近くで取材しました。地元・板橋区のJR十条駅近くの商店街。普段からよく立ち寄るという場所を案内してもらいながら撮影とQ&Aです。
―竜王奪取を一番先に誰に伝えましたか?
A 女房です。
―奥様は何とおっしゃいましたか?
A おめでとう、と言われました。
―4局目、勝ちを確信したのはどこですか?
A 二枚飛車をおろした時です。
―タイトル奪取が決まった時のお気持ちは?
A 言葉にできないですね。
―毎局、封じ手を自分がするか、相手にさせるか考えましたか?
A 5時を過ぎたら、考えました。
―2局目は相振り飛車になりました。この戦型は得意ですか?
A まあ、相居飛車よりは数多く指してます。
―藤井システムは、これからも変貌していきますか?
A まだまだ可能性はあると思います。
―故人・引退・現役を問わず、十番勝負をさせてやるといわれたら、誰と?
A 林葉直子。
―エーッ!
A 冗談ですョ 升田幸三先生。
―尊敬する棋士は大山名人とききましたが、大山名人から学んだことは?
A 1局ごとに手を変える工夫。それと、抜群の大局観を見ならいたい。
―免状に署名することになりますが自信は?
A まったくなし。
―一日で好きな時間帯は?
A 夕飯どき。
―休日の過ごし方は?
A 近くの商店街をノンビリ歩き、お茶を飲んだり。
―奥様の手料理で好きなものは?
A 全部です。
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タイトルを獲得した時に誰に伝えるかということになると、奥様、師匠、ご両親ははずせないところだと思う。
そして、奥様、師匠、両親の中で、誰に一番最初に伝えるかとなると、やはり一番落ち着きの良いのが奥様だ。
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私は高校受験の時に第一志望の高校を落ちているが、合格発表を見て呆然とした後、家に電話をして落ちたことを伝えた。私が117や177以外の電話番号に初めて電話したのがこの時だった。
もし合格していたらどうしていただろう。当時の私の性格から考えると、きっと、家に帰ってから報告をしていたに違いない。
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このような報せで、最も私が好きな話がある。
”広告の鬼”と呼ばれた電通の吉田秀雄社長(当時)の話。
永井龍男『この人 吉田秀雄』よりの一節。
「昭和三十四年も、押しつまってからのことでした。人事部長から、君が紹介したSの採用が決定したので、至急本人に知らせるようにとの電話をうけました。
当日は、女子社員の面接試験が八時半から行われる予定でしたが、急に十時からと変更されたので、Sは所在ないまま社外で時間を費やし、指定時刻に戻ってきましたが、その間にまたまた時刻が変わり、面接試験は終了した後でした。
その頃Sは十六歳、父親に死別し、老いた母親と二人だけの家庭で、中学卒業後英会話、英文タイプを取得、電通への就職を希望していたのですが、受験に遅刻しては万事休すです。
次の機会を待つように、云いきかせて帰した直後に、その電話なのです。人事部長の話によると、社長が『今日一人来なかったな』と云われたところから市川専務がSの遅刻について話をされると、即時採用が決定したのだそうです。しかも、『電話でも電報でも、出来るだけ早く本人に知らせよ。就職が決まって迎える正月と、知らずに迎える正月では、楽しさが違う』と御指示まであったそうです。私は早速、Sに採用の決定と、社長の配慮を伝えましたが、それだけではなにか物足りず、帰宅後家族たちにこの話を致しました。母と家内は、感激して涙ぐみました」
(当時の電通社員の談話)
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昭和34年、日本の高度成長期が始まった頃とはいえ、日本全体は決して裕福な時代ではなかった。
気配りと人間味あふれる人情家でもあった「広告の鬼」。
年末になると、いつもこの話を思い出す。
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