将棋世界1983年12月号、中平邦彦さんの「神戸だより」より。
秋風が吹いて、神戸も朝晩はめっきり涼しくなった。旭日の勢いだった神戸組にも秋風がやってきた。
御大の内藤が高橋五段に王位を取られ、中原十段に王座を取られた。タイトルは永遠に持ち続けられるものではない。いつかは取られるのだが、夏から秋にかけて続いて取られたのは神戸組にとってもちょっとショックだった。もっとも当の内藤は存外けろりとしていて、二冠を失った夜の談話がいかにも内藤らしかった。
「そのうちいいこともあるでしょう」
また取りに行けばいいという意だろう。
* * *
さて前回の約束、神戸組十人を神戸流に紹介しよう。
内藤國雄九段はカレンダーと戦っている。自宅のカレンダーは日程が真っ黒に書き込まれていて、見るだけで気が遠くなる。北海道から富山へ行き、東京で対局したあと九州へ行くといったすさまじさ。その忙しさがもう骨肉のようになって、暇になると調子が狂うといった感じだ。日本全国を飛び回る間に、月に200枚の原稿をこなす。
森安秀光棋聖は今、仲間から”神様”と呼ばれてニコニコしている。
棋聖の聖を指しているのだが、何しろ名人は人間だが棋聖は神様だから上だという理屈だ。まだ若かったころ、優勝したり昇段したりするうれしいことがあると、家へ帰ってから部屋でスキップをして喜びを表現したほどの陽性な男だから、初タイトルを取ったときは部屋でゴーゴーを踊っただろうと思って夫人に聞くと否定された。「もう大人ですから」というわけだった。
谷川浩司名人は皆様ご存知の通りおとなしくて無口だが、仲間といるときは結構冗談を言って笑わせる。過日、姫路で開かれた将棋まつりの帰途、森安、淡路、小阪らと三宮で二次会のカラオケをやった。棋聖が桂春団治を歌い、セリフで「今に見てみ、わいはな、日本一の落語家になったるで」というのを、むろん「日本一の将棋指しに…」と変えて見得を切ったとたん、谷川名人、タイミングよく「神様!」とかけ声を出して大笑いになった。
若松政和五段は谷川の師匠だが、巨漢に似合わず運動神経がある。
最近はゴルフに凝っていて、先日読売ゴルフ場で48、48で回って大威張りだった。
自分が好きだから喜ぶだろうと、昇段した弟子の井上慶太四段にゴルフセットをやると言ったら、井上は「僕はゴルフをしませんので」と断ってしまったそうな。井上は童顔でおむつが似合うと「パンパース井上」と呼ばれている。
対照的になんでもくれるものはありがたく頂戴するのが神吉宏充四段。師匠の内藤からゴルフセットをもらった。しかし小阪昇五段に言わせると107キロも体重があるもんがコースなど回れる訳がない。質屋へ持っていくつもりとちがうかと読まれている。
淡路仁茂八段と本屋で会った。熱心に立ち読みしている本を見ると「美しくやせる健康法」という本だ。そのココロはいつも口でやり合っている神吉がもうすぐ120キロになる、そこで淡路も60キロに減量して「お前は俺の倍も重いんやなあ」と言ってやる魂胆なのだ。ちなみに淡路VS神吉の毒舌やりとりの一端を紹介すると、内藤が神吉に「君は淡路君に似ているから目標にしなさい」と言ったら、淡路は「私の所までくるのはむずかしい」と言い、神吉は「私の夢はもっと大きい」と言った。
酒井順吉五段は神戸組の中で最も亭主関白だ。奥さんより必ず前を歩き、威張っている。恐妻家の森安棋聖などはなぜあんな風に出来るのかと夢を見ているように信じられない様子だ。
神戸組は将棋も強いが、仲間に入るには条件がもう一つある。歌えることである。神吉の入門は将棋より歌のせいだと悪い冗談まで出る。棋聖の兄貴、森安正幸五段のカラオケ好きは中でも目立つ。スナックでは水割りのグラスを持つ前にマイクを握っている。おとなしくて酒品よし。弟とまるで反対である。
さて真打ちは小阪昇五段。アゴが長いのでアントニオ小阪と呼ばれる。神戸・三宮のバー街近くに住み、夜の帝王の異名もあった。おそらく連盟で一番の音痴と思われるが、本人にその自覚がまるでなく、この10数年間、「ラブユー東京」と「小指の思い出」の2曲(これしか知らない)を歌いまくり、ホステス嬢は涙を流して喜び、したがって小阪を可愛いと思い、思いがけずにモテるのである。ところがモテるはずなのになぜか女性運がなく、30過ぎてまだ独身。毎年12月の第2日曜に結婚するから日程をあけておけと言明するがそのたびにうまくいかず、もはや狼少年のように信用がない。
先日もその話を向けたら「来年の12月は確実や」と言った。ここに書いたら呑気者も本気になるだろう。
この原稿を書くと言うと小阪はこう言った。
「小阪は神戸組のアイドルだと書いたらええねん」
——–
1983年度、A級に神戸組が4人(内藤王位・王座、森安八段、谷川八段、淡路八段)。そして谷川浩司名人の誕生、森安秀光棋聖の誕生と、神戸組が七冠のうち四冠を保持することとなり、将棋世界でも「東京だより」、「大阪だより」、「神戸だより」の3本立てとなっていた。
——–
この時代のタイトルを分類すると、
人……名人、王将
地位……王位、王座、十段
神……棋聖
人間かもしれないけれども分類が微妙……棋王
となるので、森安秀光棋聖(当時)が神様と呼ばれたのもよくわかる。
——–
パンパースは、P&Gが製造・販売している世界的な紙おむつのブランドで、紙オムツの代名詞のような存在。
現在の日本国内でのシェアは30%あまりだが、1980年代初頭には90%以上のシェアを占めていた。
そのような背景があっての「パンパース井上」だ。
現代であれば、「ムーニー井上」、「メリーズ井上」、「マミーポコ井上」というようなニックネームも検討されたことだろう。
「ムーニー井上」は外資系証券会社の凄腕トレーダーのような、「メリーズ井上」はジャニーズ事務所で役員をやっていても不思議ではないような雰囲気がある。