丸田祐三九段が釣りをやらなかった理由

将棋世界1983年1月号、能智映さんの「太公望は鳥を釣る」より。

 将棋を趣味としている人口はおおよそ1500万人といわれている。では、釣りは―となると、ものの本には800万人と書かれている。将棋人口も、釣り人口も子供たちに普及し、近年どんどん増えているが、やはり将棋のほうが”倍ほど上”ということになろうか。

「釣りなど、まったくやったことがない」という丸田祐三九段は、ややひがみ気味にいう。

「最近、釣りの本が売れているといっても、釣り人口はそんなにはないだろう。だいたい将棋指しを見回してくれよ。釣りをやるヤツなんて何人もいないはずだよ」

 たしかにいない。しかし、たった一人すごい”釣り天狗”がいた。ヘラブナを釣って30年、今回は関根茂八段が、主役である。だから”丸田発言”に強烈に反発する。

「能智さん、あなたは将棋も釣りもしないようだけど」といきなりわたしを小ばかにし、「アマチュアの中には、将棋と釣りの両方を趣味にしている人はけっこう多いはずだよ」と自説を主張する。

「実際に釣りに行ってみれば、よくわかるんだけどねえ、将棋と釣りはよく似てるんだ。―静かに構えるなか、浮きが微妙に動く。その動きに興味があるんだよ。いわば”チャンスを逃さない”という点で将棋と似ている。”勝負どころ”は、そうざらにはないからね。一見、静かに見えるけど、『いざ!』というときには動き出す。ほんとうは、そっくりなんだけどね」

 あまりの熱弁、この人の本職は将棋指しなのか、釣り師なのかと一瞬首をかしげてしまった。

 ついでだから、関根が釣りをはじめた動機も聞いてみたくなった。「うん、よく聞いてくれた!」というように、あの釣り焼けした顔をほころばせた。

「いま、わたしはこんないい身体になっているけど、実は若いころは身体が弱かったんだ。そのころ、いま住んでいる高砂(東京都葛飾区)にはいっぱい池があった。『釣りが絶好の健康法だ』とオヤジにも教えられてはじめた。もちろん、将棋も好きだったけどね。ようするに”将棋を強くするために釣りをやった”んだ。そうでなければ、こうはノッコマなかったろうね」

 やっぱり”釣り言葉”のノッコミが出てきた。当時の東京下町の情景も出ていてどこかのどかな気持ちがいい。

 だが、同じ下町(こちらは浅草)育ちの丸田は、だいぶ関根より先輩ながら、こういい返す。

「浅草から高砂までは京成電車で14、5分。たしかに、あっちには池が多かったようだけど、わたしが子供のころの墨田川はもうずいぶん汚れていた。舟に乗って遊んでいても、カイをバシャッと入れると、白いシャツが茶褐色に染まるくらいだったから魚なんかいなかったんじゃないかな」

 目を細め、なつかしそうに語る丸田だったが、当時の話をするのがつらそうにも見えた。

 兵隊にとられて満州の戦線に行った。それもつらい体験だったろうが、復員してきてもっと悲しい目に会った。―家は東京大空襲で焼かれ、両親は焼死、しかもお兄さんは外地で戦死していた。

「あの終戦直後には、工場はみんな焼かれていたので、たしかに墨田川はきれいに澄んで、魚を釣る人の姿もあった。食料難のころだったから、食べるものはなんでも欲しかった。でもね、わたしの肉親がこの川にとび込んで死んだのか、と思うと、まったく釣る気なんかしなかったよ。いきのいい魚を釣って遊んだなんてェのは、わたしのオヤジの時代だよ」

 釣りが娯楽として栄えはじめたのは、江戸時代の寛文年間(1660年ごろ)からだという。それも江戸を中心とした関東から地方へ派生していったと聞く。「錦襴の座ぶとんに座り、金屏風を立てて釣り糸をたれて贅を競った」との記述をどこかで読んだように覚えている。丸田の話を聞くにつけ、同じ江戸ながら、時代と場所が違えば、こうも情景が変わり、心情が変わっていくものか、とつくづく思ったものだった。

(以下略)

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墨田川は隅田川の古い表記。

丸田祐三九段が釣りをやらなかった理由。今から32年前に語られた更にその38年前の東京大空襲のことであるが、筆舌に尽くし難いほどの辛い話だ。

NHK将棋講座2015年7月号の丸田祥三さんの「玄関先の父」の冒頭を読んで、この話が頭の中に浮かんできて涙が溢れた。

丸田祥三さんのtweet

NHK将棋講座2015年7月号「将棋の王将」