羽生善治棋王(当時)の痛恨の錯覚

将棋世界1991年6月号、神吉宏充五段(当時)の「対局室25時 in大阪」より。

 4月12日、金曜日。この日は注目の一番に信じられないような出来事があった。南王将-羽生棋王の竜王戦である。今期の竜王戦1組は、最初から波乱が続発、ただならぬ雰囲気がある。特に中原名人、そして南、羽生はすでに敗者組に回っている。表でいくと、この3人はつぶし合いするわけで「あそこで絶対2人イヤな相手が消えるわけですから、私にとっては嬉しい展開」と谷川竜王。

 その生き残りをかけた一局、若くしてサクセスストーリーを歩んできた”東京ハブストーリー”と、5年前から土地を買っていて、先日庭つき一戸建ての家を建てた関西の堅実ナンバーワンの地蔵との対戦は予想どおり矢倉の勝負。

 羽生の玉頭攻め、南の端攻めの展開で、7図は南が▲1四香と走った所。

羽生南1

7図以下の指し手
△6五銀▲1三香成△同玉▲1四歩△2四玉▲3七桂△2五桂▲6五金△3七桂成▲1五銀△2五玉▲4四角(8図)

 羽生は南の王手攻撃に乗って、単騎王様一人でスクラムトライをかける。すごい度胸で、このあたりの強気が、先日棋王位を取った自信のようにも思えるが。

羽生南2

 8図以下は△8七銀▲同金△同歩成▲同玉△4四金▲2六銀△1六玉▲1七銀打△2七玉▲3七飛△1八玉▲3九飛(9図)と進んだ。

羽生南3

 この局面を見ていただきたい。南玉は△7六角と打たれると、どう見ても簡単に詰んでいる。こんな詰みは羽生が絶対見逃すはずはないのだが……棋譜の間違いかとも思える9図以下の指し手をどうぞ。

 △2七桂▲2九銀(10図)まで南王将の勝ち。

羽生南4

 何ということだ!詰んでいる王様を詰まさずに、受けたつもりの△2七桂は▲2九銀で以下△1九玉▲2八銀引の3手詰め。

 こんなばかな終局は考えられない。投了の瞬間の茫然自失の羽生の表情が目に浮かぶ。羽生も驚いた。私も驚いた。誰もが驚いた。いや、一番驚いたのは南だったかもしれない。間違いなく今期の珍局ナンバーワンだろう。

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羽生善治名人は、1989年(第2期)に竜王位を獲得して以降、一度だけ竜王戦2組に降級したことがあるのだが、降級が決まった一局がこの対局。

竜王位を奪われた翌期に2組まで一気に行ってしまうことになり、このパターンは昨年度の渡辺明棋王も同じ。

2組になった期に挑戦者となっているのも、羽生棋王(当時)と渡辺棋王の共通点。

棋王という点まで同じだ。

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それにしても、詰みを逃して、なおかつ守った手が守りになっていなくてトン死、という、通常のトン死よりも悔いの残る展開。

羽生名人にとっては非常に珍しいことであり、神吉五段(当時)が「こんなばかな終局は考えられない」と驚くのも無理はない。