将棋世界1971年2月号、倉島竹二郎さんの「南海の巨匠(14)」より。
この三派合同棋戦で6人抜きをやった頃が、大崎さんの将棋の最もアブラの乗り切った時代のようだが、その時の金さんとの将棋を観戦する機会を持った某氏(多分石山賢吉氏)が「鉄仮面」の匿名で次のような文章を書いている。それは当時の対局風景や大崎さんの対局ぶりを活写しているので、少し長いが紹介することにしよう。
「鉄仮面」の文章から
(前略)私は対金戦の一局を見物した。
相懸かり模様で戦い、大崎君が得意の筋違い角を打って攻め、最初は優勢だったのが、中盤で指し返され、遂に絶体絶命の必死を懸けられてしまった。大崎君は詰めなければ負けになる。しかも我々素人が見ては、到底詰みそうにない。大崎君はそこでウンと考えた。
煙草の好きな棋士は、対局中、煙草で助けられる。しかし、大崎君は煙草を嗜まない。彼は仁丹を噛む。そして、これを煙草の代用にして居る。ところが、其時は、朝からの戦いで仁丹が無くなって居た。買って貰いたくても刻限が過ぎて居る。時計は12時に近い。仁丹などは何処を探しても有りやしない。場所は報知新聞で鉄筋コンクリート建の一室。不眠不休の新聞社でも、この時刻になると、シンとして人が居るのか居ないのか、わからない。対局の一室には、大崎、金の両棋士と報知の事務員と私が居るのみであった。
大崎君は懐へ手を入れた。そして、一通の手紙を取り出した。彼はそれを取り出すや否や、イキナリ封筒を引き裂き、その一片を丸めて口に入れた。それを噛んで仁丹代わりにしたのである。私は、彼の非衛生的行為に驚いた。しかしそんな事は彼の問うところではない。穢なかろうが、かるまいが、毒であろうが、あるまいが、彼は一切無頓着である。彼は只精神を振興すればよいのである。思索を継続し得ればよいのである。そして、苟しくも之を助け得る材料があれば、何でも拒まないのである。棋士が重要な対局をなす態度は、決死的である。自刃を交える真剣勝負と少しも変わらない事を、私はその時知った。
大崎君は紙屑を噛みながら、顔を真赤にして思索を続けた。
時計は12時を打った。
大崎君が詰手を発見するかどうか、私はその結果を見たかったが、それ以上見物して居ると、省線電車(今の国電)がなくなるので、心残して大井の宅へ帰った。
翌日出社すると、大崎君が知らせにきて「お陰で勝ちました」と去う。
どうして勝ったのか、我々には不思議に思われる位であった。その手捌きを聴いてみると、敵を攻めながら、自分の必死を外し、アベコベに敵へ必死を懸けて勝ったと去う。
その手数は三十幾手かある。変化を加えるとそれを悉く読み切って強敵を倒した。そして、剛勇無双の実を明らかにあいた。(以下略)
鉄仮面は大崎七段が贔屓らしく、この文章も大崎七段の肩を持ちすぎたキライがないではないが、それにしても手紙の封筒を引き裂いたのを丸めて仁丹代わりにしたあたり、大崎さんの面目躍如として甚だ痛快である。
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大正11年に行われた三派合同棋戦(関根金次郎名人率いる東京将棋倶楽部、土居市太郎八段率いる将棋同盟社、大崎熊雄七段率いる将棋同士会)の大崎熊雄七段-今易二郎七段戦。
大崎七段はこの直後に八段に昇段。
八段になって発言力を増した大崎熊雄八段は、関根派、土居派、大崎派と三派に分かれていた棋士を一本にまとめるために奔走した。(その結果、東京将棋連盟が結成される)
大崎八段は豪放磊落な性格で、政治的手腕も非常に優れていた。
若い頃の菅谷北斗星、倉島竹二郎さんを自宅の傍に住まわせ、客分として厚遇もしている。
大崎熊雄九段の弟子が飯塚勘一郎八段、その弟子が大友昇九段、その弟子が森雞二九段と郷田真隆王将という系譜。
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石山賢吉氏はダイヤモンド社の創業者。
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仁丹は、銀色の粒状の丸薬。
そういえば、昔は仁丹を常に持ち歩いている大人がずいぶんいたような感じがする。
仁丹を噛むと、将棋が強くなれるのだろうか。