羽生マジックを不発に終わらせた谷川浩司九段

将棋世界1997年2月号、大崎善生編集長(当時)の編集部日記より。

11月29日

 竜王戦第5局の衛星放送を将棋連盟の応接室で観戦。羽生竜王が最終盤の鬼手△7二金を指した瞬間に一緒に観戦していた森九段が「出たよ、出た出た」と大はしゃぎ。「こんな手ありなの、えっ?わけわかんなくなっちゃうよ」と、対局者さながらにパニックを起こしている。しかし、冷静に読んでみるとどうも驚かせたにすぎない!? ということが判明して、森九段もホッと一安心。不発に終わったが最後の最後まで何が飛び出すか解らない羽生マジックの恐怖を、垣間見たような気がした。

12月2日

 谷川さんが編集部へ。「まだまだ喜んじゃいけないんですけどね」といいながらも流石に嬉しそうだ。「△7二金は知っていましたか?」の私の問いには「いえ、全然読んでいませんでした」といい笑顔。

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羽生善治六冠(当時)の△7二金とはどのような手だったのだろう。

将棋世界1997年2月号、第9期竜王戦第5局〔羽生善治竜王-谷川浩司九段〕「勝敗を分かつもの」より。

将棋世界1997年2月号より、撮影は弦巻勝さん。

将棋世界1997年2月号より、撮影は弦巻勝さん。

羽生谷川1

7図以下の指し手
△7二金▲同馬△6九竜▲同金(8図)

谷川 ▲7三同角成(7図)の瞬間が、詰めろか詰めろでないのか、よく分からなかったんです。確か詰めろだったと思うんですけどね(笑)。

 ただ7図で後手玉が詰めろかどうかは、実はそれほど大した問題ではないんです。詰まなくても、攻めているうちに先手玉が安全になるので大丈夫です。

 7図で△7二歩なら、詰めろは防いでいます。△7二歩には▲8二桂成△同角▲9三香成△同角▲同香成△同玉▲8二角△9四玉で、ここでいろいろありますが、私は▲8六桂△同香▲9五歩△同玉▲9六銀(H図)のつもりでした。

羽生谷川2

 H図で△同玉は、▲9七銀から▲8六銀と香車を取られて詰んでしまいます。即詰みを逃れるためには△9四玉しかないんですが、そこで▲8六歩と香車を取っておけば、先手玉が安泰になって後手玉は必至でしから、これが一番安全な勝ち方です。

 7図で△7二飛もありますが、▲8二銀か▲7四銀として、△7三飛▲同銀不成で、状況はあまり変わりません。

 正直いって、△7二金はまったく読んでいませんでした。勝負には運、不運が結構あって、私の調子が悪くて羽生さんの調子がよければ、これでぴったり後手の勝ちになっているんですね。△7二金▲同馬の時に、先手の玉が詰むという結末に終わるんですよ(笑)。不思議なもので。でも、今回は、私の方が調子がよくて羽生さんが調子が悪いという形でしたので、ウッカリはしてたんですけれども大丈夫だ、逆転ではないと思いました。時間もありましたからね。

―その手を見た瞬間の感じ方が違うということですか。

谷川 そうですね。そういう風に思えるということは、割合に自信を持ってシリーズを通じて指せたということなんでしょう。

羽生谷川3

8図以下の指し手
△7七歩▲同桂△8七香成▲同銀△同香成▲同玉△8九飛▲8八歩△8六銀▲同玉△5三角▲7五香△8八飛成▲8七金(投了図)

まで、109手で谷川九段の勝ち

谷川 △7七歩では、△8七香成の方が普通です。△8七香成▲同銀△同香成▲同玉△8六銀▲同玉△5三角の時に、△7二金と出た効果で6四に合い駒が利きませんが、▲7五香△同角▲同玉で、△8五飛なら▲7四玉で上が抜けているので大丈夫ですね。

 △7七歩にも、ちょっと迷いました。▲同玉でも詰まないような気がしたんですが、どっちでも詰まないというのは、困るんですよね(笑)。

 最後の▲8七金で▲8七歩は、いきなり△7七竜から△8五桂で詰まされてしまいます。

 投了図以下は、△7五角が一番怖い手で、▲同歩は△8五香で危ないんですが、▲同玉△6四銀に▲7四玉でも▲6六玉でも詰みません。

羽生谷川4

(以下略)

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谷川浩司九段が竜王位の奪取を決めた一局。

谷川竜王(当時)の「勝負には運、不運が結構あって、私の調子が悪くて羽生さんの調子がよければ、これでぴったり後手の勝ちになっているんですね。△7二金▲同馬の時に、先手の玉が詰むという結末に終わるんですよ(笑)。不思議なもので」という言葉が深い。

羽生六冠(当時)が好調であれば、谷川九段がどのように正しく応じていたとしても詰むような局面が出来上がっていたということだ。

これは読みを超越したもので、紙一重とはこのようなことを言うのだと思う。