増田裕司四段(当時)「この日は師匠から、村山さんが心配なので終わるまで待機している様に言われていた」

将棋世界1998年10月号、増田裕司四段(当時)の村山聖九段追悼文「ありがとうございました」より。

 村山さんと初めて出会ったのは15年前。南口九段の将棋教室にいると、森信雄師匠と村山さんが遊びに来られた。中学2年の村山さんは一人黙々と詰将棋を解いていた。この時まさか自分の兄弟子になって面倒を見て頂く人だとは思わなかったので、「今、何段」とか「奨励会は受けるの」とか気軽に聞いていた。会った印象は、とてつもなく将棋が強そうな雰囲気が漂っていた。

 初めて将棋を指してもらったのは村山さんが奨励会の5級で、僕が研修生の時だった。師匠から将棋を指してあげてくれと言われて、村山さんは渋々指してくれた(見たいテレビがあったらしい)。

 村山さんが奨励会の有段者の時は、連勝すれば必ず食事をご馳走してくれた。今考えると、将棋に勝てば人一倍うれしくて、負ければ人一倍くやしかったのだと思う。しかし、これ程将棋を指している時は勝負に厳しく、将棋を離れると繊細で思いやりのある人は珍しいと思う。特に、相手の気持を察するのが鋭かったように思う。勝負に厳しいといっても、相手を睨んでこの野郎というのではなく、将棋盤を睨んで真理を探求するタイプだった。

 数えきれない思い出の中で一番うれしかったのは、僕の四段昇段パーティーの時、打ち合わせも何もなかったのに、自ら壇上に上がってスピーチをしてくれたのが忘れられない。

 印象に残っている将棋は、村山さんが膀胱癌の手術をした後の復帰第1戦目。対丸山七段(当時)の順位戦である。この日は師匠から、村山さんが心配なので終わるまで待機している様に言われていた。控え室のモニターには図の局面が映っていて、村山さんの勝勢である。夜中の1時半頃だったと思う。体調が万全の人でも意識が朦朧とする時間である。「終盤は村山に聞け」といわれる程、絶対的な終盤力を持ってしても、手術後、この時間まで指してる事自体、無茶である。午前1時43分、村山さんは逆転負けをしてしまう。

 命を削ってまで将棋に打ち込んだ村山さん。あまりにもあっけない。僕は天才村山八段の弟弟子で本当に幸せ者でした。大変お世話になりました。

村山丸山1

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増田裕司六段は森信雄七段の二番目の弟子。

村山聖九段から見れば、ある時期まで唯一の弟弟子だった。

村山九段にとっては生まれてから初めての弟のような存在だったのが増田奨励会員であり、「奨励会の有段者の時は、連勝すれば必ず食事をご馳走してくれた」とあるように、本当に可愛がっていたのだろう。

増田裕司六段の四段昇段は1997年10月、村山九段が亡くなる10ヵ月前のことだった。

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村山聖八段(当時)が膀胱癌の手術をした後の復帰第1戦目、順位戦の対丸山七段(当時)の当日の夜のことは、故・池崎和記さんも書かれている。

1997年7月の村山聖八段