米長邦雄前名人(当時)「中年よ大志を抱け」 

将棋マガジン1994年10月号、小室明さんの「夏の東急将棋まつり特別レポート スター棋士の講演を聴く」より。

中年よ大志を抱け 米長邦雄前名人

将棋マガジン1994年10月号より。

 将棋界の”中年の星”として燦然と輝く米長前名人の登場である。開演を前に早くも、会場いっぱいに人垣ができている。割れんばかりの拍手に迎えられた米長は、

「座って失礼します。前名人の前というのが余計だがそういうことになっちゃったんですね」(笑)

 語尾が柔らかい米長独特の語りが始まった。

「名人戦が終わって疲れちゃってね。休養届け出してロンドンに行こうかと思ってね。どうも困った女の子でね。無事に決着ついてよかったな」

 この後、若手がリードする棋界の現状を説明し、

「名人戦が終わった後、目標を掲げましてね。それは中年よ大志を抱けってことなんですね」

 中高年受難の時代にあって若手と対等に戦う秘訣は何か?

「ひとつは若手に結婚させることですね。結婚してタイトル取るのは谷川だけ。いい人を見つけて押しつける。そんな他力本願はいけない(笑)。

 勝てない理由を体力だという人がいるんですね。朝から晩の12時まで指したら疲れるんじゃないかって。そんなことはない。世界中で一番楽なのは将棋指しですよ。将棋盤の前に座ってりゃいいんですから。

 一方、脳ミソがかたくなる、記憶力が弱くなるというのは事実です。そのかたくなった脳ミソをもみほぐしてもらうのが、私の場合は将棋界の若者です。子供のうちは頭がカラだからどんどん入る。大人は脳ミソがいっぱいで入る余地がない。それで年を経るうちに頑固になる。これはまずいので、新しいモノを取り入れ、古いモノを出す必要がある。この手続を怠る人が多い。ちょうど駐車場のようなものです。車を一台入れる。その前に一台出す。どの車を外へ出すのか。この判断を若い人にしてもらうのです。

 例えば王位戦の羽生・郷田戦。気になる局面を書いておいて、『佐藤康光先生、この手をどう思うか。見解を教えて頂きたい』。そこで会話が生まれ、見解の相違が出る。こういう時は師匠の森下卓を呼ぶ。『竜王はこうおっしゃるけど師匠はどうか』二人とも意見が合わない場合は羽生の所にいく。それが名人戦の最中には行けなくなっちゃったんですね。これが手違い。えらい目にあった(会場爆笑)。結局、3人ばかり聞いて3人とも同じ見解で私だけが違う。これが私のサビ、古くなったモノで捨てなきゃならん。それが案外、自分が一番大切にしているモノということになる。

 戦法でみると近頃のタイトル戦は居飛車。居合抜きのような将棋じゃなきゃダメ。飛先の歩を交換するサギ師まがいの中原流、ああいう手口も覚えなきゃいけない。あの戦法で名人に復活したんだから。

 中川大輔も私の師匠ですね(笑)。ま、本当は弟子の中川を訪ねて腰掛け銀と横歩取りを教えてもらう。相手はスペシャリストだから当然私が負ける。連敗する。だけどそこで角道を止めて四間飛車にしたらもうダメ。四間飛車ではタイトル奪取につながらない。若者が研究している戦法をやり、負け続けることで流行の最先端に位置し、序盤戦術のノウハウを身につけられる。つまり自分の好きな戦法を捨ててもタイトルを取りたい。これが中年よ大志を抱け、ということです。50を過ぎたら、人生やれやれ。冬はフグ、夏は枝豆食べてビールを飲みながらのんびり過ごすのが幸せかもしれんが、私は中年に大志を抱いて欲しい。肉体は年を取っても精神は18歳のつもりで将棋を指していきたい」

 ユーモアを交えながら、聞き手の大半である中高年の泣き所を刺激する話術はさすがに場馴れしている。この後、王座挑戦をかけた谷川戦の抱負を語り、見事に締めくくった。

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「いい人を見つけて押しつける」

この頃は、将棋一途でやってきた若手棋士が恋愛や結婚をすると不調になるという都市伝説があった。

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「勝てない理由を体力だという人がいるんですね」

別の日の講演で、中原誠十六世名人は「七冠を取るには体力も必要」と話している。

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「これが私のサビ、古くなったモノで捨てなきゃならん。それが案外、自分が一番大切にしているモノということになる」

どのような物事も100%良いことだらけ、ということはありえない。光と陰が同居している。

この変革が、米長永世棋聖が名人位を奪取する原動力となるが、河口俊彦七段(当時)は、その反面として、筋の良い序盤だと「泥沼流」が出なくなってしまい、米長将棋の魅力が薄れてしまったと述べている。

真部一男八段(当時)「中原・米長それぞれの羽生世代対抗作戦」

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恒例の節回し 原田泰夫九段

近代将棋1994年10月号より、撮影は炬口勝弘さん。

 今日も和服姿で元気いっぱいの原田九段。会場いっぱいに格調高い声が響き渡る。

「おかげ様で将棋界もなんとかやってこられました。この10年、お嬢さん、奥さん、おばさま、おばあちゃま、幼稚園のお子さんまで、女性に将棋が普及してきたことを大変うれしく思います」

 確かに女性ファンは増えつつある。この日は日曜日。会場の一割近くは女性の姿が見られ、連日通いつめる熱心なOLもいる。

 原田スピーチは、羽生名人誕生、関根名人、木村名人の思い出、中原自然流、米長さわやか流命名のいきさつ、奥様をテキと呼びつつ懐柔しながら現在に至る話など、棋談あれこれ、将棋よもやま話を展開する。原田いわく

「これは原田の話の手法であり癖でもありますが、飛車のように縦にいったと思うと横に、また稲妻型の角のように、時には人の頭を飛び越えた桂馬のようにと。ま、話は飛ぶわけです」

 将棋を軸に、スピーチは枝葉に分かれて政治、経済、そして人生談義へと進む。

「私はA級八段になった26歳の時から”三手の読み”を提唱し、これが注目されて政府機関から講演を頼まれたこともありますが、時は流れて現在の村山首相は大変に立派。目が涼しい、眉毛が長いばかりでなく善人の顔、態度もいい、話術も巧み。主義主張を超えて、今の時代にふさわしい方だと思います。

 私の日常といえば将棋雑誌、一般週刊誌を乱読して雑学のこやしとし、また二日に一回、近所の縄のれんをくぐり酒癖の悪くない方と語り合う。それを私は社会の大学院、研修会と呼んでいる。

 人生の心がまえとしては適当な闘志と適当な冷静さをバランスよくもち、将棋大会の審判長的に言うなら、恐れず、焦らず、喜びすぎず、物事の結論がついてから祝盃をあげるべきと思います。どんな時もゆとりのない人生はよくない。よく働き、時々遊んで実りある人生をおくるよう心がけてください」

 いつもながら穏当でいて、含蓄に富んだ原田節。だが原田九段の将棋人生から、その時々の社会状況が浮き彫りにされ、聞く者にある種の感慨を抱かせるには30分という持ち時間では物足りない。当人にとっても聞く側にとっても。

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原田泰夫九段の話は面白く、多くのファンが楽しみにしていた。

一般的に話が長いと嫌がられるものだが、原田九段は別格。時間の長さを全く感じさせない名調子で、逆に話が短く終わると「原田先生、今日はお体の調子が良くないのだろうか」と心配してしまうほどだった。

30分という時間は、原田九段にとっては乾杯の音頭で一言、のような時間。

30分聞いていても、もっと聞いていたいと思えるのが原田九段の話だった。

原田泰夫九段の講演(序盤)の再現

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七冠には体力も必要 中原誠永世十段

近代将棋1994年10月号より、撮影は炬口勝弘さん。

 いつも通りに悠然と登場した中原誠永世十段は、まず林葉失踪問題に触れて、

「林葉さん失踪後における連盟の対応はかなり甘かったのに、帰国後の処分は急に厳しくなったと感じました。私はその旨を申し上げたのですが、一部のマスコミでそれを誤解されて報道されました。非常に残念ですね。それにつけても今回の失踪は林葉さんだからこれほど話題になったんで。私が失踪してもダメですし、羽生新名人でもね。誰か女優とでも失踪すれば話題になるでしょうけど。まあ、これをなんとか将棋の普及面でプラスにしたいですね」

 場の雰囲気が和んだところで話題を棋戦の方に転換した。

「6月に羽生新名人が誕生し棋聖も防衛しました。私は王位リーグが好調でしたし、棋聖戦も挑戦者決定戦までいきましたからね。どちらか挑戦できるかと思ったけどダメでした。しかし谷川さんがあんな負け方をするなら私が挑戦した方がよかったかなと」

 自然流らしからぬ強気な発言に会場からは拍手が巻き起こった。

「谷川さんは私と対戦する時も含めて本当に強いんですけど、どうも羽生さんには、うっかりが多くて。羽生マジックにかかるんでしょうかね。まだ若いのだからいずれ羽生さんからタイトルを奪回する局面もあるとは思いますけど。

 これに関連しますが、大山さんから私あたりまでは40歳ぐらいが全盛期だったと思いますけど、今は30歳前が全盛期なのかという気がします。谷川さんだけでなく高橋さん、南さんも以前の方がどうも強かったようです。しかし30歳前がピークとすると空恐ろしい気がしますね。私は46歳ですが大山さんのように年齢は関係なし、例外と思ってがんばりたい。

 羽生さんは絶好調ですけど、30歳がピークとすれば先のことはわからない。七冠王の可能性もあれば、数年後には無冠になる目もある。そのへんは神のみぞ知るのでしょうが。私の経験で言いますと、七冠を取るのは本当の力ではなく体力ですね。過去には六冠に王座の準タイトルを加えて、フル出場したことがありますが、これは将棋の力じゃないな、健康、体力、スタミナだなと思いました。タイトル戦が二つだぶるのはザラですし、スケジュール調整も大変です。

 まあ、羽生先生には夢の七冠を全部取ってもらってその場でバタッと倒れて頂くと。これが棋士一同最も喜ばしいのではと」(爆笑)

 話は一転して色紙の文字に。

「よく質問されるのは『平歩晴天』という言葉ですが。理想を高くもってゆっくりとわが道を行くというような意味です。将棋の歩が入っているので気に入っています。『只楽(しらく)』は訓読みにして、ただ楽しむ。私自身はこの境地に至っていませんが。ま、自然流に一番近いのは『流水』ですか。水というのはいろいろな形に変わりますので。豪雨にもなるし、さらさらと流れる水もある。水は流れていないといけない。淀むと進歩が止まります。

 ただ将棋というのは自然に指して自然に勝てるほど甘くはない。意表を突いて相手を焦らせる。自然な手と意表を突く手とのバランスが大切です。私は師匠の高柳名誉九段に、無理やり自分の意志を通す、手をつくるところがあると評されました。今は若い時より過激になりましたが、大局観、形勢判断の良し悪しが勝敗を分けることは変わりありません」

 音吐朗々とした、ふくらみのある大名人ならではのスピーチであった。

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「しかし谷川さんがあんな負け方をするなら私が挑戦した方がよかったかなと」

これは来場者へのファンサービスでもあっただろうが、もちろん本音も入っていたと思う。

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「大山さんから私あたりまでは40歳ぐらいが全盛期だったと思いますけど、今は30歳前が全盛期なのかという気がします。谷川さんだけでなく高橋さん、南さんも以前の方がどうも強かったようです」

ところが、羽生善治九段をはじめ羽生世代の棋士は40代になってもものすごい活躍を続けるわけで、いかに羽生世代が歴史を動かしてきたかがわかる。

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生涯最高の名人位 加藤一二三九段

近代将棋1994年10月号より、撮影は炬口勝弘さん。

 7月27日、将棋まつりの最終日は大豪、加藤九段の講演で会場を沸かせた。紺のスーツをしっかりと着込み、例の早口でまくしたてる。

「私のセキ払いは、棋士仲間からクレームのつく時があり、特にNHK杯戦では注意されることも多いのです。セキ払いがでるのは好調の証拠で、そこが痛し痒しなのですが、常に気をつけるようにはしています。そのNHK杯戦ですが、大山先生が優勝8回、私が7回です。大山先生は放送文化賞を受賞されてますので、私もあと1回受賞したいです。大山先生は感想戦でも手がすっと伸びますが、手の動きを早くするために和服の袖を短く仕立てていましたね。

 次は升田先生ですけど、私は升田先生には大変親しくして頂き、仲人もお願いしました。その升田先生と私はA級順位戦の最終局で大一番を戦ったことがあります。升田先生は勝敗にかかわらず、名人挑戦も陥落もない。私は負ければ陥落でした。将棋の世界には八百長はなく、私は正々堂々と戦って勝ち、4日後の王座戦でも升田さんを負かしました。八百長で勝つことがあると、それにより被害を与えた棋士にわだかまりを作り、対等に接することが出来ません。150人の狭い世界だから大変に辛いのです。

 升田先生はこの後引退されましたが、私は朝日新聞社の嘱託の後輩としてもお世話になり、そのご恩に報いたいと考えます。

 最後に生涯最高の思い出となった名人戦のことに触れます。12年前の7月31日、私は中原名人を4-3で降し名人になりました。持将棋、千日手と含め全部で10局。最終局は将棋連盟で戦い、対局終了2分前、中原玉に詰みが見えず、また出直しかと思いました。今や42歳、もうチャンスはないのかと諦めながら中原玉を凝視した瞬間、秒読みの中でパッと閃く大妙手▲3一銀の詰みを発見し、思わず『あっ、そうか』と叫びました。中原名人は持ち時間をかなり残していましたからすでに気づかれていたのでしょう。毎年この時期になると懐かしく思い出すうれしい出来事なのです」

 紙面の都合でかなり割愛したが、加藤は巨体を揺すりながら、おそらく無意識なのだろう。マイクを左右の手に持ちかえ、片手を激しく動かしつつ、何かに憑かれたように熱弁を振るった。スピーチもまさに重戦車の貫禄であった。

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「大山先生は感想戦でも手がすっと伸びますが、手の動きを早くするために和服の袖を短く仕立てていましたね」

これは今では知られていることだが、当時としては斬新な情報。このような情報は嬉しい。

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「秒読みの中でパッと閃く大妙手▲3一銀の詰みを発見し、思わず『あっ、そうか』と叫びました」

この時の模様は、次の記事に詳しい。

「加藤一二三新名人誕生」

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「セキ払いがでるのは好調の証拠で、そこが痛し痒しなのですが、常に気をつけるようにはしています」

この頃の加藤一二三九段は、まだ「ひふみん」とは呼ばれていなかったけれども、皆に愛される現在の姿の萌芽が現れはじめた時期とも言えるだろう。