対局室内が一瞬で凍りついた出来事

将棋世界1999年3月号、真部一男八段(当時)の「将棋論考」より。

 若手との対戦が圧倒的に多くなっている現在、同世代との一局は何かしら気持ちに安心感というか安定感のようなものを感じる。過去30年ほどの様々な思い出が、ふと蘇るせいなのかもしれない。

 1月14日、竜王戦で中原永世十段との手合がついた。約1年半ぶりの対戦であり、前回もやはり竜王戦だったが、これは敗者復活戦で今回は本戦である。

(中略)

 中原51歳、真部46歳、これくらいの年齢になれば、もう同世代といっても許してもらえるだろう。

 同世代とはいっても中原は名人位15期既に十六世名人の資格を持つ大棋士である。当日私は緊張と期待を感じながら将棋会館に向かった。生憎、交通事情が悪く対局室に入った時は定刻を3分過ぎていた。非礼を詫びて着座した。ここまでは何事もないありふれた対局前のひとコマである。対局室は三間ぶち抜いた大広間の最上席、高雄の間でありその上座に中原が座り、隣に加藤一二三九段が井上慶太八段と対座している。

 入室した際に、視覚的にはほんの一瞬だけ加藤が部屋の中央近くに位置しているようにも感じられたが、全くといってよいほど気にも留めなかった。

 振り駒で中原の先手となり、私は遅刻時間の3倍を引かれて対局開始である。

 中原の▲2六歩で始まり私は指し慣れた四間飛車を採用した。

 異変はここから始まった。7手目急に中原が考え込んでしまったのだ。

 何ということもない出だしであり、しかも近年中原は早指しだ。何を考えているのか見当もつかない。中原流相掛かりで知られるように、中原は作戦家であり、近頃は四間飛車も多用して、独特の左穴熊対策も編み出している。

 よし何でもやってこい、こちらも負けていないぞ!と久々に序盤から気合が乗ってきた。ところが中原の次の一手は私の棋士生活26年で最も意表を衝くものであった。

 やにわに立ち上がった中原は、加藤の方に近寄りながらこういったのだ「加藤さんやっぱりおかしいよ」続けて「もう少し盤を向こうへ動かして下さい」。

 私はびっくりしながらそちらを見れば、確かに部屋の6割ほどの面積を、あちらは占領しているようだ。加藤にしても意外だったのだろう。無言である。

 席に戻った中原は「一日中、気分の悪い状態でいるわけにはいかない」と呟き、「そっちも大事な将棋だっていうのは分かるけど、こっちだって竜王戦なんだ」。加藤-井上はA級順位戦である。

「50センチ、50センチでいいから動かしてよ」。文章では激しい言葉づかいに思われるかもしれないが、あの泰然とした中原の言動だけにどうしたって険悪な感じにはならない。ただ、あの中原にしての振る舞いだけに、逆に迫力があるともいえる。そして続いての一手には、私の曲がった腰椎が思わず伸び切った。

「加藤さん喧嘩を売るの、喧嘩を売るんだったらそれでもいいよ」。大広間は、静まり返った。大名人のさすがの迫力に、神武以来の天才も苦笑を浮かべながら手を振って「いやいや、そんな他意はありませんよ」と穏やかに応じて、盤の位置をズラして場は丸く収まった。

 遅刻してきた私は知らなかったのだが、この出来事には実は前哨戦があった。

 定刻に入室してきた中原は、二つの盤の位置取りが不自然であると直ぐに感じ、そして加藤に少し動かしてくれないかと話したらしい。ところが加藤は、もう決まっていますからと応じなかったようだ。その時は中原も、まあ仕方がないかと思いそれ以上主張しなかったのだが、時間が経つにつれ、次第にやはりこれはおかしいと思い始め、先の行動に及んだのである。だから遅刻した私の以外の人達は、その前段階を知っていたというわけだ。事情を知らぬ私だけが仰天したのである。そして盤の配置にも細かく気を配る両巨頭に、将棋に対する強い思いを見せられ、長く一線で活躍する者と、並棋士との違いをつくづく知らされたものだった。

終局後、中原と話したのだが中原は「あんなことがあったけど僕は加藤さんに何の悪気もないのを知っているし、彼のことを好きなんだよ。4、5日は変な気分が残るだろうけど、それで後は何でもないんだ」と屈託ない笑顔で述懐していた。おそらく加藤にしてもそうだろう。英雄は英雄を知るということだ。私にはそういう関係が少し羨ましかった。

(以下略)

——–

お互いの信頼関係があるからこそ成り立つやりとりなのだろう。

周りにいた人達は本当に肝を冷やしたことだと思う。

この日は、中原誠十六世名人が真部一男八段(当時)に勝ち、加藤一二三九段は井上慶太八段(当時)に敗れている。