昨日行われた棋聖戦第4局は、羽生善治棋聖が永瀬拓矢六段を破って2勝2敗となった。
羽生棋聖の猛攻が見事に決まった形だが、後手番の羽生棋聖が採用した戦型が、ネット中継で「前例は最も新しいものでも12年前で、その前は20年以上さかのぼる。その中には羽生の名前もあった。1990年3月に行なわれた全日本プロトーナメント決勝三番勝負の第3局▲谷川浩司名人-△羽生善治竜王戦(肩書は当時)で、羽生が勝って棋戦優勝を果たした」と解説されているように、26年振りに指されたもの。
羽生棋聖はインタビューで、「同じような将棋を昔指したことがあったのですが、またやってみようかなと思いました」と語っている。
A図は昨日の第4局の序盤。26年前の対局でも同一局面が現れている。
今日は、その26年前の対局を振り返ってみたい。
将棋マガジン1990年6月号、第8回全日本プロトーナメント決勝第3局〔谷川浩司名人-羽生善治竜王〕「思い切って戦えた」より。自戦解説は羽生善治竜王(当時)、記は中島一彰編集長(当時)。
―注目の名人・竜王対決と言われた三番勝負でしたが、谷川名人と戦われるにあたって何か感じられたことがありますか?
羽生 谷川先生と戦えるのは、非常に楽しみでした。これまで局数の少なかったですから。こういう番勝負でないと、なかなか沢山は指せませんし。
―1局、2局を振り返ってみて、調子などはいかがでしたか。
羽生 第1局は、自分でもちょっとだらしなかった、と思う点がありました。展開としては、じっくりしていてもジリ貧となるので、勝負には行ったのですが……。やむなく行ったという感じになったので……。第2局は、途中では苦しいかなと思った時もあったのですが、結果は幸いしました。敗因のちょっと分かりづらい将棋で、難しい戦いだったのですが。
―そして決着をつける第3局。
羽生 ともかく思いっきりぶつかって行こうと、それだけ考えて臨みました。
(中略)
―改めて振り駒で名人の先手。矢倉模様となりましたが。
羽生 先後はあまり意識していませんでした。角換わり、相掛かり、とここまで来ましたから、矢倉になるような気もしていました。私が先手だったら?ですか。うーん、特に決めてなかったので、どうなったやら。まあ、角換わりか矢倉を選んだと思います。
1図以下の指し手
△5五歩▲同歩△同角▲2五歩△5四銀▲2四歩△同歩▲同飛△2三歩▲2八飛△2二角▲5七銀△5三銀▲4六銀△4四銀▲6八銀△5二金▲7九玉△6三金(A図と同じ局面)▲3六歩△8五歩▲7七角△7三桂▲3七桂△9四歩▲9六歩△1四歩▲1六歩(2図)羽生 積極的に行こうと思っていたので、最近流行の急戦調で臨みました。2図までは、プロの実戦でもよくある形です。
ただ、ひとつのポイントは、谷川先生が▲5六歩と打っていない点です。この歩を打つと、後手の方から△5五銀左とぶつける筋がなくなるので、流れが穏やかになります。しかし、本譜のような展開になれば、こちらとしても仕掛けざるを得なくなっています。
谷川先生が▲5六歩を打たなかったのは、棋風でしょう。この歩を攻めに使おう(例えば▲5三歩など)という、谷川先生らしい考え方だと思います。
2図以下の指し手
△6五歩▲同歩△同桂▲8八角(3図)―いよいよ開戦ですが、自信のほどはいかがでしたか?
羽生 自信はともかく、ここは仕掛ける一手だと思います。この将棋、後手の方は駒組みに進展性が望めませんので、整ったらバーンと行かないと、仕方ないのです。
△6五同桂と跳ねるのは、形のよい筋ではないのですが、手をこまねいていると、先手も三歩持ったので▲2四歩△同歩▲2五歩△同歩▲2四歩と、厳しく攻められてしまいます。
△6五同桂に▲8八角は、この一手。▲6六角では△5五銀左で、これははっきりツブレです。
3図以下の指し手
△8六歩▲同歩△8五歩▲同歩△8六歩▲6六歩△8五飛▲9七桂△8一飛▲8二歩△同飛▲8三歩△同飛▲8四歩△同飛▲8五歩△8一飛▲6五歩△9五歩▲6四歩△6二金(4図)―ここで継ぎ歩攻めをして後手優勢と、中原棋聖の講座(将棋世界12月号)に書いてあったのですが、ご存知でしたか?
羽生 いえ、それは知りませんでした。ただ、中原棋聖-井上五段戦で似たような実戦があった、ということは知っていました。
3図の継ぎ歩攻めからは、ほとんど一本道の変化だと思います。先手の▲6六歩も仕方のないところ。桂を取り除かないことには……。また8筋に歩を連打して、飛車先を止めたのも、当然の順でしょう。
(中略)
5図以下の指し手
△5五銀左▲同銀△9七歩成▲同香△同香成▲同角△5五角(6図)羽生 5図で△5五銀左と、踏み込めたことが、好結果につながったと思います。
もっとも、この急戦形の将棋は、駒を引いたら負けなのです。前進あるのみ、なのです。
△5五銀左のぶっつけに対し、▲4五銀とかわすのが筋ですが、それは△6七歩が厳しい一打となります。この6七に一発入れば、後手良しとなります。
ですから▲5五同銀はやむない応手でしょう。続く△9七歩成に▲同香も当然で、この手に代えて▲5四銀は、△8八と▲同金△5五角打。やはり後手良しです。
6図以下の指し手
▲4六桂△6七歩▲同銀△7七香▲5六香△6六歩▲7七金△6七歩成▲同金△6六歩(中略)
―9図以下は、会心の寄せですね。
羽生 いえいえそんなことはありません。ただ、△5六香が詰めろになるので、割り合いに寄せ易かったことは事実です。
(中略)
―シリーズを振り返っての感想はいかがですか?
羽生 ある意味で勝負にこだわらないで指せたのが、大きかったと思います。ですから、あまりプレッシャーもかかりませんでしたし。竜王になってから、他の棋戦で優勝したかったので、それが達成できて嬉しいです。
―谷川名人に6勝2敗と大きく勝ち越しですが。
羽生 自分でもよく分かりません。ただ、谷川先生が相手ですと、思いっ切り指せる、ということはあります。それがたまたま好結果になっている、ということでしょうか。
―最後に、新年度の目標を聞かせて下さい。
羽生 やはり竜王戦での防衛が大きな目標ですが、他のタイトルも目指して、一局一局頑張っていきたいと思います。
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昨日の棋聖戦第4局、羽生棋聖の火を吹くような猛攻が印象的だったが、そもそも後手側の戦型が「駒を引いたら負け、前進あるのみ」という宿命を持ったものであったことが分かる。
羽生棋聖がどのような理由で26年ぶりの戦型を指したのだろう。
可能性として考えられるのは次の4点。
- カド番に悔いのないよう、前進あるのみの思い切って戦える戦型を選んだ
- 永瀬拓矢六段が生まれる前の、現代では精緻な研究の及んでいない世界に持ち込んだ
- 5手目▲7七銀が矢倉の主流に戻った今、今回の形の急戦矢倉が後手側の有力な作戦として羽生三冠の中でクローズアップされてきた
- 「中原棋聖-井上五段戦で似たような実戦があった、ということは知っていました」と羽生三冠が26年前に語っているように、当日の控え室にいた井上慶太九段の経験の深い戦法を採用した(羽生三冠が立会人や解説の棋士の得意戦法を採用することがあるのは有名な話)
ネット中継によると、形勢判断が揺れていた控え室の中で、早いうちから後手持ちを表明していたのが井上九段だという。
羽生三冠のことなので、この日のために事前に入念に準備してきた作戦ではなく、前日あるいは当日の朝、井上九段の顔を見て、指してみようと思い立った可能性が最も高いかもしれない。
今後、この古い戦型が他の棋士によっても指されるようになるかどうかも興味深いところだ。