藤井猛竜王(当時)を動揺させた鈴木大介六段(当時)の歴史的大珍手

将棋世界2000年1月号、グラビア第12期竜王戦七番勝負第4局「鈴木大介 歴史的大珍手で一矢!!」より。

藤井猛と鈴木大介。若手を代表する振り飛車党同士の今期竜王戦だがこの二人、棋風は180度正反対。ガジガジ流の終盤が有名だが基本的には緻密な理論派の藤井。終盤重視の豪腕型・鈴木。藤井3連勝は鈴木本来の力がまだ出ていないのか。竜王戦8連勝で一気に防衛を決めたい藤井に対し、鈴木は一吠えが期待された。

(中略)

 △5一飛、△2一飛とビシッビシッと手がしなって来て鈴木好みの戦いが始まって来た。極めつけは△3七桂打!歴史的珍手で将棋は最高潮に達した。「最善手と思ったがさすがにふるえた」(鈴木)。しかしこの勝負手が藤井に動揺を与え、後の逆転の伏線になった。

(以下略)

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将棋世界2000年1月号、読売新聞の小田尚英さんの第12期竜王戦〔藤井猛竜王-鈴木大介六段〕観戦記「鈴木流、会心の勝負手」より。

「これは言わない方がいいかもしれないが、富山では君のファン皆が待っているんだよ」

 第3局が終わり、対局場から山形駅に向かうマイクロバスの中。そっと話した師匠、大内九段の言葉が、鈴木にはこたえた。勝ちを確信して読み筋通りに寄った玉が敗因になろうとは。3連敗。第1局の完敗から見ると調子は上がっているが、結果が出ないのは何よりつらい。

 藤井は藤井で、納得できない気持ちと不安を抱いた。終局直後のインタビューで、3連勝ですが、と聞くと藤井は「内容が……」とのみ答えた。確かに3連勝後の4連敗は将棋界では例がない。しかし、次に負けると流れがおかしくなる。第4局で決めてしまわなければ。

 竜王戦七番勝負は、藤井の3連勝でいきなり大詰めのムードになった。

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 流れを大ざっぱに振り返ると、いずれも居飛車を持った藤井が作戦勝ちし、制勝している。序盤の鈴木のかすかな甘さを的確にとらえて優位を築く機敏さと構想力は、「激辛」の名に恥じない。藤井システムを生み出した序盤力は居飛車側でも存分に発揮されている。加えて指し手の駆け引き、時間の使い方、七番勝負全体の組み立て、調整法、「空気」の作り方。昨年の第1局から際立つ勝負術の巧みさは今年も続いている。盤上だけでなく、相手も見て指す。大山将棋の系譜では、と見ている。

 鈴木は「僕の将棋はシャドーボクシングです」と言う。あちことに手を出し、ヒットするのを狙う。当たらないと疲れちゃうこともある、のだそうだ。和服の着付けを含め七番勝負の戦いに慣れてきた。66、119、136。終局の手数だけを見ても、鈴木らしさが出てきているのが分かる。実際内容も、最初は完敗、第2局はもつれ、第3局は一時優勢と、良くなっている。パンチは当って来てはいるのだ。

 とはいえ、かど番。正念場である。

(中略)

 本局は藤井の居飛車穴熊、鈴木四間飛車の戦型になった。1図まで何気ない手順のようだが、立会人の森下卓八段によると、後手は藤井システムの存在そのものを問うている。「藤井竜王は△6二玉は悪手と思っているでしょう。これで振り飛車があっさり勝てるなら、藤井システムの意義はない。作戦勝ちからつぶしてやろうと思ったに違いありません」

 確かに、振り飛車が普通に組んだのでは居飛車穴熊に対して分が悪い。それで苦心の末藤井システムが誕生したといういきさつがある。本局は互いの将棋観をかけた戦いである。

(中略)

待機作戦

 挑戦者決定三番勝負のことを聞いた際に印象に残った鈴木の言葉が「予定どおりの作戦負け」だった。丸山忠久八段が相手だったので、不利を承知で攻め合いに持ち込んだという。攻め合いになれば何とかなる。これが鈴木の勝負術だ。

 本譜では、待機策を採用した。途中、△5四歩は、藤井なら突かないだろう。森下八段は「薄くなるという藤井竜王の理論があるんですが、それに反発した意味もあるでしょう」と見る。

 この辺り、今のプロのほとんどは居飛車の作戦勝ちと判定するだろう。衛星放送解説の田中寅彦九段は「この形は20年前のもので、大山先生とよく戦いました。振り飛車を持って勝てたのは大山先生と森安秀光九段くらいでしょう」と懐かしそうに話していた。

 鈴木は16手目まではノータイム、その後もあまり時間を使わずに飛ばす。これが作戦で、おそらくは「予定どおりの作戦負け」ではなかろうか。

 先手は右桂が使える理想的な陣容。藤井は時間を使い、緻密かつ細心に駒組みを行う。50手目△5二銀は封じ手。

藤井鈴木1

(中略)

穴熊新感覚

 2図では後手から仕掛ける手はない。先手としては、最善形を作ってから行けばいい。2日目午前中は、仕掛けの間合いを計りつつの駒組み合戦。本譜の先手陣は最新形だ。松尾歩四段愛用の形で、松尾流と呼ばれている。7八金-7九銀の金銀逆形が気になるが、穴熊の強度は損なわれていないし、6七の金が5、6筋に手厚い。新感覚の囲いで、長年居飛車穴熊で勝率を稼いできた田中九段をして「わたしでもついていけない」。

藤井鈴木3

 一方、後手も銀を7一まで引き付けて固める。最新形と旧形ということもあって、ここでも依然先手作戦勝ちが維持、拡大されている。

 △5二飛は、5筋からの動きを含みに「仕掛けてこい」と打開を図ったもの。チャンスと見た藤井は長考に入った。

3図以下の指し手
▲1五歩△同歩▲2四歩△同歩▲6五歩△同歩▲2四角△3三桂▲4六角△4五歩▲同桂△同桂▲2一飛成△9六歩(4図)

深い読み

 ここから2日目午後の戦い。竜王戦ではノンストップとなる。初日は3時の紅茶を対局室に運んだのだが、両対局者の要望で2日目は、なし。信じるのは自分だけの純粋な時間帯だ。

 休憩をはさんで長考62分。▲1五歩の仕掛けは、さすが藤井の深読みだった。

 1、2、6筋を突き捨てて(△6五同桂は▲2四角△2二飛▲5一角成△2六飛▲6六歩で先手よし)▲2四角が藤井の構想。

 普通なら▲2四角には手筋の△2二飛があるのだが、この場合は▲5一角成△2六飛▲6四歩△6二金引▲7五歩△同歩に▲4一角とじっと角を打つ好手がある。この時に7四に打つ歩が1筋にあるのが▲1五歩の意味だ。鈴木もそれは承知なので△3三桂。この応酬に森下八段は「強い」と脱帽。

 桂を犠牲に▲2一飛成と飛車を成り込んで、藤井は「将棋は終わった、竜王防衛」と思った。

藤井鈴木4

(中略)

藤井鈴木5

5図以下の指し手
▲6五桂打△同桂▲同桂△5一飛▲4三竜△2一飛▲2八歩△3七桂打(6図)

なんだ、この桂は!

 控え室がざわめいてきた。△5一飛で鈴木の指は本当にしなった。そして▲4三竜に△2一飛。二度打ち付けた。「これは富山(第5局)があるぞ」。興奮した声が響く。要因となったのは▲4三竜。▲3二竜なら△5五角が必然で▲同角△同歩に▲7三角から清算し、▲6五桂で明快に先手勝ちだった。

 作戦勝ちから勝ちの局面を作ったことで、藤井システムの存在意義は揺らがなかったといえるが、喜んでいる場合ではない。

 藤井は青ざめた。▲3三竜の角得は△2九飛成の王手で先手だめ。やむを得ない▲2八歩。△2四角▲同角△同飛で飛車が成れ「富山」か。いや△2四角には▲3五桂の犠打で後手だめだ。「やはり北アルプスを超えるのは大変か」。控え室の熱が乱高下する。

 そんな中、鈴木の手が変な方に伸びた。△3七桂打。なんだこれは。こんな筋の悪い手は見たことがない。△2八飛成の狙いだが、▲2七桂で全然だめじゃないか。控え室は呆然としたのだが。

藤井鈴木6

6図以下の指し手
▲2七桂△2四角▲8五歩△同香▲2四角△同飛▲7三角△同金左▲同桂成△同金▲6三金(7図)

ガジガジ流

 驚いたことに、△3七桂打は絶妙の勝負手だった。森下八段は「本局のハイライトでしたね」と、本稿の解説を聞いた対局翌朝も興奮さめやらぬ表情。

 桂の意味は、飛車成はあきらめる代わりに角交換を必然にしたこと。先手に桂を使わせた上に角の照射がなくなって後手陣の脅威はかなり緩和された。そして藤井に心理的動揺を与えただろうことも大きい。後の逆転劇の伏線になった。

 局面を冷静に見ると、本譜▲7三角からの清算で先手がわずかに残している。

 藤井は最後の4分を使って▲6三金。これがガジガジ流の寄せだ。ここで▲6三歩成は△同金▲8四歩△7二銀引▲8三金△8一玉以下難解で先手容易ではない。▲6三金に△7二金は▲8四歩で先手勝ち。△8四金は超難解だが、▲7三金△9二玉▲8三金△同金▲8四歩△同金▲9三銀以下、最初から30手以上先に必至がかかる順があると感想戦で一応の結論が出た。しかし、また鈴木は予想外の手を指す。

藤井鈴木7

7図以下の指し手
△同金▲同歩成△8四銀(8図)

理外の勝負手

 鈴木渾身の順が△6三同金から△8四銀。△同金は0手でと金を作らせる考えられない一着だ。▲同歩成で一目先手勝ちと喜ばし、思考回路を狂わせて、ひょいと△8四銀。「富山は遠かった」と静かになっていた控え室に再び火がついた。前譜の△8四金など難解な変化があったところに、全くの理外の順、加えて1分将棋。意表を突かれることがめったにない藤井もパニックに陥った。▲7三金で勝ちだった。△9三玉は▲7四金、△9二玉は▲7二と。藤井は以下の詰みが見えず▲7二とでだめと判断した。

 竜王といえども実戦の修羅場の中では見落としもある。人間の戦い。だから将棋はこわくて面白い。

藤井鈴木8

8図以下の指し手
▲6四と△9八歩▲8九玉△9九歩成▲同玉△6九角(9図)

ついに逆転

 ▲6四とが敗着になった。これが詰めろではないことは、分かってはいたが、指が妙に動かされた。

 本局は竜王戦七番勝負の中でも極めて印象深いドラマとなった。

 詰めろでなければ△6九角の詰めろで後手勝ち。本譜で余計な順が入っているのは当初△5七角で決めようとしていた鈴木が軌道修正したため(▲6七金引で危ない)。

 本人は「棋士になって初めてこんなみっともないことをしました」と大いに反省していた。

藤井鈴木9

9図以下の指し手
▲8三金△8一玉▲8二歩△同銀▲同金△同玉▲8三歩△9三玉▲9八銀△7八角成▲7四と△8七桂▲同銀直△8八金▲同銀△同馬▲同玉△8七歩成▲同銀△同香成▲同玉△8六銀(投了図)

まで、142手で鈴木六段の勝ち

藤井鈴木10

鈴木初勝利

 9図以下は説明の必要はないだろう。ただ▲9八銀の延命策に、藤井の本局にかけた思いが表現されている。見ていて体が熱くなるのを感じた。対局直後に連勝ストップについての感想を求めたら「気を取り直して次を頑張ります」との言葉。1敗でそれほど落胆することもないと思うのだが、改めて本局で決めに来ていたのだなと思い至った。

 終了後、鈴木と軽く飲みに出たのだが「△3七桂打は筋は悪くても僕らしい手。△8四銀は会心の勝負手です」と笑顔で話していた。第3局直後とは別人のようで、なんだか妙に納得してしまった。

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藤井システムを指す振り飛車党の棋士が相手だったなら藤井猛竜王(当時)は相振り飛車にしていただろうが、藤井システムを指さない鈴木大介六段(当時)が挑戦者。

藤井システムは、居飛車側が穴熊や左美濃に組もうとすると、組んでいる途中から酷い目に遭うよ、という戦法。

相手が藤井システムを指さないのであれば居飛車穴熊で戦う、というのは藤井システムを開発した藤井竜王にとっては勝負師の意地としても、また理論的にも自然な流れ。

この期の竜王戦七番勝負は5局とも、藤井竜王の居飛車、鈴木六段の振り飛車という戦型となっている。

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△3七桂打(6図)は飛車を成ることを狙ったのではなく、▲2七桂と使わせて▲3五桂の筋を無くし、角交換を実現させるための手。

非常に論理的な背景があるが、見た瞬間、誰もが驚く一手。

小田尚英さんの「竜王といえども実戦の修羅場の中では見落としもある。人間の戦い。だから将棋はこわくて面白い」が名言だ。