倉島竹二郎「勝負を見つめて五十年」(後編)

将棋世界1981年1月号、倉島竹二郎さんの「勝負を見つめて五十年」より。

 名匠巨匠といわれる人には、どこか常人と異なる学ぶところのあるものだが、私は将棋の名匠巨匠から教えられるところが多かった。私は今でも十三世名人関根金次郎翁と坂田三吉翁のことをよく思い出す。

 普段の関根名人はエロばなしばかりしている助平じいさんに思えたが、第1期名人戦の最中に起きた将棋連盟の分裂騒動(関西の神田辰之助七段の八段昇格問題がこじれて、神田氏に同情する名匠花田長太郎八段と金子金五郎八段、それに塚田正夫六段、坂口允彦六段、建部和歌夫六段、加藤治郎五段といった若手花形が連盟を脱退し、革新協会をつくった騒動)のとき、関根名人の示した毅然たる態度はさすがに大したものだった。それは花田八段たちが脱退を声明した直後のことだが、残留派が青山北町にあった将棋連盟の本部で総会を開いた。みんなが興奮して殺気立っていて、遂に脱退派を除名処分にすることになった。ところが、正にその議が決せられようとした瞬間、それまで黙って成行を見まもっていた関根名人が「わしは除名に反対じゃ」と横槍を出し「出ていった者も、残ったお前さんたちも、わしにとっては同じ可愛い弟子や孫弟子じゃ。だから、どちらに理屈があっても、わしは勘当するようなむごいことは出来ぬのじゃ」と、云い放った。毅然たるうちに温情がこもっていた。

 さきに書いたように、私は助平じいさんぐらいに気安く思っていたのだが、この時の関根名人の立派さには目を洗われる感じがした。そういう殺気立った雰囲気の中で、ただ一人異を唱えることは余程の信念と勇気と、愛情がなければ出来ないことで、感動した私は「これこそ勝負師の棟梁だ。この名人がいられるかぎり、脱退派も残留派も再び元の鞘におさまって、棋界に平和が訪れるだろう」という気がした。

 その分裂騒動は、関根名人の兄デシにあたる小菅剣之助翁(名誉名人)の調停によって和解が成立したが、関根名人の深い愛情が全棋士の心をやわらげ、同じ仲間同士だという意識を目覚めさせたようである。私は関根名人によって、いざという場合勇気と愛情がどんなに大切であるかを教えられたものだ。

 勇気といえば、坂田三吉翁も大変勇気のある人だった。

 坂田翁は長年将棋連盟と絶縁状態だったが、第2期名人戦のとき、菊池寛先生を介して名人戦への参加を申し出られた。そして、菊池先生の尽力で出場が許された。私はその節坂田翁の対局の観戦記を書いた関係で親しくなり、坂田翁が当時東京の駒込駅の近くにいた私の家に訪ねてこられたこともあった。その際、坂田翁の挨拶のお辞儀が大そう長く丁寧で、私の母をひどく感心させたことや、また坂田翁が「将棋の勝負は、二人が盤の前に坐ったときに、もう決まっとります」と話されたことなどが思い出されるが、坂田翁で最も印象深いのは、戦時中に見かけた翁の最後の姿である。それは昭和19年の晩秋のことであった。当時、予備役陸軍中尉だった私は二度目の応召で、京都深草の歩兵連隊に勤務していた。戦地に出かける筈が、どういうわけか応召の将校が一人余分だったので私は内地に残され、召集兵の教官を命じられたのだった。そのころは既に敗戦の様相が歴々で、戦線に送り出される召集兵たちの水筒は竹の筒で、私が教官だった兵士たちが目的地に着く前に敵機に襲われて海の藻屑と化したという悲報を聞いたとき、兵士たちの水死体と一緒に浮かんでいる竹の筒の水筒が目の先にちらつき、それで幾晩も寝つけなかったものである。それはともかく、私は腰部神経痛を起こし、軍医の指示でギプスをつくってもらいに京都吉田の大学病院整形科に通うことになった。ところがある日、京都の市電の中で異様な服装の人物に出会った。当時、男性は、軍人以外は国民服に戦闘帽ゲートル姿、女性はモンペ姿に決まっていたが、その人物は黒紋付の羽織袴に、片手に扇子を持っていた。それは古来からの日本人の盛装であったのだが、それが異様の服装に見えるほど世の中が変わっていたのだ。

 この人物は坂田三吉翁であった。そのころは国民服やモンペでないと戦争に協力しない非国民のように思われたものだが、坂田翁のあまりの堂々さに、誰もとがめようとする者はなく、もの珍しそうに、またおっかなそうに、チラチラと視線を向けるだけだった。坂田翁は窓外を見ていたので私に気付かなかったが、私はなつかしさのあまり声をかけようと急いで近寄っていった。が、途中で足をとどめた。というのは、将校ながら軍隊という鉄の鎖に縛られている体で、病院通いにも時間の制限があった。それに会えば坂田翁が容易に放さないことは分かっていたし、病院で看てもらう時間も決まっていて、遅れるわけにいかなかったからだ。で、残念ながら声をかけないことにしたのである。

 坂田翁は熊野神社前で降りた。私もそこで下車したが、坂田翁は軍服姿の私にはとうとう気付かずじまいで、岡崎の方に歩を運んだ。岡崎に家村という後援者がいたからであろう。私は暫し安全地帯に佇んでその後姿を見送ったが、斜陽を背に秋風に袂をなぶらせながら、ゆっくり、ゆっくりと歩をはこぶ坂田翁の羽織袴姿が、小柄なのに周囲を圧するように大きく立派に見えた。「俺は天下の将棋指し」と、誰はばからず棋士の正装である黒紋付で都大路を闊歩するのは、自分の職業に対するかぎりなき誇りと、また余程の勇気がなければ出来ないことで、私は感動のあまり涙が浮かんできて坂田翁の後姿がぼやけたほどである。それが私が坂田翁を見た最後で、坂田翁はそれから1年余りして永眠されたか、私は敗戦後その時の坂田翁の姿を思い出すにつけ、日ごろ威張っている政治家や思想家たちが坂田翁のように自分の職業に誇りを持ち、勇気ある行動をすれば、日本もあんな惨めな負けようなしなかったろうに――と、思うのだった。

* * *

 太平洋戦争が勃発した昭和16年に私は陸軍報道班員として徴用され、故高見順氏などと一緒にビルマに派遣されたが、ビルマから帰還後しばらくして昭和10年以来名人戦の観戦記を書きつづけてきた東日(東京日日新聞で今の毎日新聞)を退社した。別段観戦記や新聞社がイヤになったわけではなく、戦争が次第に悪化してもはや呑気に将棋の観戦をしていられる時勢ではなくなったからだ。新聞社の幹部や友人達はじきりに引き止めてくれたが、私は「戦争が終わったら、また戻ってきて将棋の観戦記を書かせてもらいます」と口約束をして、無事円満に退社することが出来たのである。そして、帰還軍人で組織していた「文科奉公会」の一員だった私は、会長の桜井忠温少将(旅順の激戦をえがいた名著「肉弾」の著者)と一緒に女子挺身隊決起の会に講演にいったり、また傷痍軍人の療養所各地に慰問に回ったりした。傷痍軍人の療養所では将棋の話が喜ばれた。そのうち、前記のように二度目の召集令状がきて京都の歩兵連隊に勤務することになったのだが、心身の疲労と栄養失調が重なったせいであろうか、胸を悪くして除隊となり、駒込の自宅で静養することになった。新聞社をやめている上に働けなくなって経済的に弱ったが、ある日、東日の友人だった故黒崎貞治郎氏が見舞いに来てくれた。黒崎貞治郎氏は名人戦の開始にあたって随分功労のあった人だし、終戦直後大阪の新興新聞「新大阪」に木村名人と戦地帰りの升田幸三七段との五番勝負(これは升田七段が三番棒に勝った)を企画して棋界を活気付けたのも黒崎氏(当時は新大阪の編集局長)であり、私が名人戦の観戦記者になったのも、黒崎氏が誘いにきてくれたからだった。

(中略)

 当時、黒崎氏は東日の文科部長だったらしいが、見舞金として手渡してくれたのが、何と大枚千円であった。そればかりでなく、これも預かってきたと云って差出したのが木村義雄名人からの五百円だった。私にはそのころと現在のカネの価値がどれぐらい違っているかよく分からないが、終戦前であり、百円とれば相当なサラリーマンであった時代で、黒崎氏の千円は恐らく新聞社から前借りしてきたものであろうし、木村さんの五百円も如何に羽振のよい名人とは云え可なりな負担だったに違いない。私は黒崎氏の友情にどんなに感激したか知れないし、また木村名人が新聞社をやめ観戦記も書いていない私を、将棋仲間としていたわってくれる気持がどんなに嬉しかったか知れない。

* * *

 これも私が駒込の自宅病気の静養に努めている時のことだが、ある日、附近を散歩していると、道でバッタリ宮松関三郎八段(当時七段)に出会った。宮松さんは私の青白い顔や憔悴ぶりから栄養失調からきた病気と察したらしく、根津宮永町の家に連れて行くと、奥さんに命じてギンメシ(当時白米のことをそう呼んで貴重がった)を沢山たかせ、大きな握り飯を大皿一パイに盛って、森の石松の文句じゃないが「食いねえ、食いねえ」と勧めてくれた。ギンメシを何ヵ月も食べていなかった私は夢見心地でたらふく御馳走になったが、帰りしなに宮松さんは「長年将棋をやっているお蔭で、私のところには米の手に入るルートがあるから、腹がへったらいつでも食いにきて下さいよ。将棋仲間はこういう時に助け合わなくちゃ」と親切に云うと、「これは少しですが奥さんのお土産に――」と、白米を何升か風呂敷に包んで手渡してくれた。

 私は今でも握り飯を食うごとに、そのときの握り飯の白さとうまさと、そして宮松さんの親切が身にしみて思い出されてならないのだ。

 私は病気中、名匠花田長太郎九段(当時八段)にも随分親切にしてもらった。私が新聞社をやめてからも花田さんの友情は少しも変わらず、私が栄養失調から胸を悪くして自宅で静養していることを知って、精をつけさせようと、東京中でただ一軒ビフテキを食わせる店だという洋食屋に連れていって、大きなビフテキを注文してくれた。また「私の家の者もパンが好きだし手に入るので、配給米なら差上げてよい」という伝言で、尾山台駅の近くにあった花田邸に出かけると、配給米のほとんどをタダで譲ってくれたばかりでなく、当時まったく珍しかったトーストに貴重なバターをたっぷりつけて御馳走してくれたりした。私は宮松さんや花田さんの厚意を生涯忘れないであろう。

 私はよい先輩に恵まれて幸せであった。故水上滝太郎先生、小島政二郎先生、故村松梢風先生、故佐佐木茂索さん、瀧井孝作さん、それに里見弴先生や梅原龍三郎画伯等で、こうした諸先輩にはいろいろと一方ならぬお世話になった。が、将棋関係で最も恩恵にあずかったのは何と云っても今は亡き菊池寛先生である。先日、古い手紙類を整理していると、菊池先生から妻にきた速達の手紙が見つかった。開けてみると、それには「拝啓、倉島氏再度御出征につき、いろいろ御心労のことと思います。ついては、今後時々御慰安の意味で、お見舞金をお送りします。第一回分として二百円だけお受け取り下さい。次ぎは、九月末頃お送りいたします。菊池寛、倉島竹次郎御夫人(原文のまま)」というので、走り書きだが、明らかに菊池先生の筆蹟で、私は思わず落涙した。

(中略)

 私は終戦の直前、戦火で半焼けになった駒込の家から鎌倉の腰越海岸に移った。が、病勢の悪化の上に戦後のインフレで、文字通り四苦八苦だった。戦後は文壇の様子も変わったらしかったが、菊池先生は相変わらず時々見舞金を送ってくださった。それで私達一家はどんなに助かり、私はどんなに勇気付けられたか知れない。そのうち私の病気もようやく峠を越し、将棋界の復活と同時に名人戦の観戦記を頼まれたり夕刊紙に「将棋太平記」という連載小説を書くようになったりした。

(中略)

 白状すると、私は今までに幾度となく観戦記者をやめようと思ったことがある。それは自分に専門家の棋力があるわけでなく、観戦記の解説や批評には必ず高段者の影武者がついているので、いわゆる他人のフンドシで相撲を取っているという自虐意識が昂じた際である。そうした時、有形無形に私を励まし勇気付け、やめるのを思いとどまらせてくれたのは、読者との浅からぬ交流であった。親子二代にわたって私の観戦記を愛読した由を、それにまつわる思い出とともに、こまごまと書いてよこす人もあれば、初めて教鞭をとった時から停年退職した現在までズッと観戦記で楽しませてもらった、今は楽隠居の身分だから是非泊まりがけで遊びにきて、将棋界の話でも聞かせてほしい――という便りもあった。また会津若松の人で、名産の「身知らず柿」を毎年一パイ送ってくださった有り難い読者もいた。大阪の著名な書家である伊藤東海先生(88歳)も読者で、私のために将棋をテーマにした長漢詩をつくり、それを揮毫してくださったこともあった。観戦記者冥利と云うべきで、こういう心あたたまる読者との交流があっては観戦記をやめられよう筈がない。

―こうして、私は50年間将棋を観つづけ、将棋の世界で暮らしてきたわけだが、現在私は満78歳で、この正月で数え年80になるわけであり、今更どうジタバタしても将棋との縁は切れそうにないし、また切ろうとも思わない。そして、若しあの世とやらにいって建仁寺の易者に会ったら「あんたの八卦は名人クラスだなア」と、ほめてやりたい気がするのである。

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感動的な話が続く。

このような、仲間を大事にする、仲間を守る、というところが将棋連盟発足以来の良き伝統。

昨年の出来事を見ていると、全体的にではないだろうが、この伝統がどこかで断絶しているように感じる。

現代的ではないと言われてしまうかもしれないが、良いものはいつまでも残していってほしいと願うばかりだ。