行方尚史四段(当時)を追う

近代将棋1994年6月号、故・団鬼六さんの名人戦〔米長邦雄名人-羽生善治四冠〕第1局観戦記「第52期名人戦は人生的革命戦争である」より。

 52期名人戦はやはり、米長と羽生との宿命の決戦となった。

 50才の米長名人に対し、23才の挑戦者、羽生。これはもう新旧の対決といった風な単純なものではない。棋界における世代戦争、いささか誇張していうならばこれは革命戦争である。中高年政府軍と若手革命軍との戦いが幕を切って落とされたような棋界は今、一種の極限状態に突入した模様を帯びてきた。

(中略)

 倉敷に来たのは初めてである。

 想像していた通り、ここは時空を超越した白壁とレンガの構成美で固められた街であった。

(中略)

 第52期名人戦の観戦記者としてここへ派遣された事を私は思い出し、宿舎となっているクレリオンホテルへひとまず向かうことにした。対局場はこのホテルではなく、ここから歩いて数分の所にある芸文館であって、そこはこの美観地区にある美術館、考古館と共に市民に親しまれている劇場であるらしい。

 倉敷の宿舎となると本瓦ぶきの屋根に白壁作りの純和風旅館ばかりと思っていたが、将棋関係者のほとんどの宿舎となったクレリオンホテルは南欧風の白亜の建物で、こじんまりしているが、バロック音楽でも流れてくるような豪奢でセンスのいいホテル、これがまた柳枝垂れるゴリ皮の美観地区にマッチしているというのは常に現代を意識しようとする倉敷人の姿勢というべきだろう。この一帯は新と旧が見事に演出されて美しく調和が保たれているのだ。日本的情緒が西洋風な季節感の中で息づいているといった感じであった。

 その明るいフロントで、あとから行方という若い棋士が来るから僕の部屋に泊めてください、と告げて記帳をすませた。実は一昨日、行方四段がぜひこの名人戦の観戦に参加し、倉敷にある大山名人の墓にお参りしたいと電話で告げて来たのだ。彼は東京から昨夜、バスで出発し、今朝方、対局場となっている芸文館へ到着している筈である。

(中略)

 (芸文館の)三階の控え室は二間続きの大きな客室といった感じで外の光りを反射させて室内には暗いかげりは一つも見られない。ここに報道関係者、観戦記者、棋士達が普通ならひしめき合っているという所だが、部屋は広いし、明るいし、将棋関係者はまるでヘルスセンターの広間でくつろく人々みたいにみんなゆったりとしている。

(中略)

 ここには緊迫した空気など全く感じとれない。私が腰を下ろすと同時に、この控え室の係りになっているらしい、若い倉敷女性が近づいて来て、お茶になさいますか、それとも、おコーヒー?と尋ねてくれる。別の若い女性はいそいそと汚れた灰皿を取りかえている。

(中略)

 行方四段が近寄って来て、お茶係りの倉敷美人の方を指し、僕、ああいう女性が好みなんです。と、ここでナンパする意志を私に伝えてくる。さ、そろそろ、やりますか、とカメラマンの弦巻さんが将棋盤を指して私に眼で合図して来る。

(中略)

 名人戦、二日目―二日酔いの頭を揺さ振りつつ行方四段とホテルから対局場に向かったのは10時を過ぎていた。

 昨夜はあれから米長名人と別れ、弦巻カメラマンに案内されてこの倉敷美観通りの居酒屋を行方四段も呼び出して飲み廻ったが、居酒屋といってもいづれも趣きのある民芸調、白壁作りの店で、何んとかいう瓶詰の地酒が実に美味だった。

(中略)

 この攻め合いは居飛車側の有利とはいい難い、と行方四段は控え室の将棋盤の前に私を座らせて解説するのだった。行方四段にホテルの部屋をとってやったのも、夜、地酒を御馳走しているのも観戦記者として重大な任務についている私にこうして名人戦の進行棋譜を解説してもらうがためである。だから彼は倉敷でナンパなどする暇はなく、忠実に私に尽くさねばならないのである。

 ここで飛車の交換となれば私なら当然、振り飛車側を持ちたくなるが、それをいうと行方四段は、「そうでしょう、いささか先手の作戦勝ちです。後手、ちょっと出遅れていますが、一局目ですから相手の出方を消極策で見ているのでしょう」といって、しきりに控え室の周囲をキョロキョロ見廻している。どうしたんだ、と聞くと、昨日のお茶の係だった可愛い女の子の姿が今日は見えない、と、情けなさそうな顔をしていうのである。アホか、お前は、といいかけた時、NHK衛星放送の担当者二人がやって来て、一寸、テレビに出て何かしゃべってほしい、という。

(中略)

 米長名人、旗色悪し、と、行方四段の声を聞くと、私は弦巻カメラマンと炬口カメラマンを誘って外出する事にした。何かそこらでうまいものを喰って大原美術館へ行って帰りに倉敷の有名な喫茶店「エル・グレコ」に入ってコーヒーでも飲もうという事にしたのはどうも名人、旗色悪し、と聞いて落ち着かない気持ちになって来たからだ。

(中略)

 先手の▲7四歩によって後手は桂損となり、ここではもう優劣がはっきりしたようだ。と、出先から私が控え室に電話を入れると有森六段や村山七段と研究していたらしい行方四段が私に報告した。

(中略)

 弦巻、炬口カメラマンと別れてから地元の愛棋家、東洋ポリシュの社長、高橋杉男氏に倉敷駅近くの小料理屋へ招待される。やっぱり気がかりで行方四段に電話を入れてみると、米長先生、段々悪くなるホッケのタイコです、と彼は何やら妙な事をいった。

 「逆転はありそうでないか」

 「まず、ないと思います」

 「あきまへんか」

 「あきまへん」

 行方四段はもうそろそろ終局になりそうだから帰って下さい、といった。そしてまた、とうとう、あの美人のお茶係りは姿を見せなかった、と、愚痴っぽく私に告げた。「そんな事、知るか」といって私はガチャンと電話を切った。

 私が文芸館へタクシーで戻ったのは午後7時半頃、控え室へかけこむとモニターを見ていた立会人の有吉九段が、うわッ、きつい手が出た、と、声をあげた。

(中略)

 終局は午後8時27分。カメラ関係者は蘇ったようにソレッとばかり対局室へすっ飛んでいった。普段はなまこみたいに動きの鈍い行方四段も火事でも見に行くように対局室へ突っ走っていく。感想戦というのは棋士にとって最も価値のある勉強の場所になるのだろうか。私は何だか敗帝・順徳院の前に近づくような恐れと喪失感のようなものを感じて遠くから報道陣でぎっしり埋まる対局場をチラと見ただけ、すぐに控え室へ引揚げた。

(中略)

 打ち上げはクレリオンホテルの地下一階で10時頃、開催された。

 名人のテーブルと挑戦者のテーブルはこれはそういう配慮をするものなのか相当に離れた地点に配置してあった。

 私は名人側のテーブルについていたが師匠の佐瀬先生の喪も、もうすぐ明けるし、米長の反撃は次回から始まると私は周囲の人達に酔って気炎を上げた。

 しかし、こういう席ではあまり勝負の事は口にしない方がいいようだ。私は隣席の有吉九段が六甲山で猪を見たというから、そりゃ大狸の間違いだ、などと下らない論争を始め、そこへ行方四段がひょっこり顔を出して来たから腕をつかんで米長名人の隣へ座らせると、おや、可愛いい四段ね、名は何ていうの、と名人、行方四段に杯渡して酒を注ぎ、何やらわけのわからぬムードになってきたが、打ち上げ会というのは大体、こんなもので、私はふとエールの交換でもやらかす気持ちで挑戦者側の席へフラフラと歩いて行った。

 ああ、どうもその節は、羽生棋聖と私は笑顔を交わしたが、何の節だったか忘れたけど、彼の笑顔はすごく柔和なものに感じられた。つまり、その節よりも人間性が豊かになったという事か。

 この間、NHKテレビの「人間マップ」に登場した羽生四冠王を偶然に眼にしたが、視界の宮本亜門をまるで呑んでかかったような余裕ある応答ぶりと落ち着き、彼はもう蒼さや硬さなんて微塵も感じさせない。洒脱な貴公子というイメージで堂々とテレビ出演した羽生棋聖を見て、その成長ぶりに驚くと共に、こりゃ、米長先生、褌しめ直してかからんとあかんぞ、と思った。「実は私め、本日、米長名人の応援にまかりこしたるわけで」と挨拶すると、羽生棋聖、これは、それは、と恐縮を見せ、柔らかい微笑を口元に浮かべるのだった。

 そこへ名人側の席についていた行方四段が近づいて来てうしろから私の上衣の裾をぐいぐい引っ張った。

 「米長名人が外へ飲みに行こうと呼んでます」

 恐らく私が羽生棋聖に、名人に平手で勝つとは大したもの、などと酔って無礼な事をいっているのではないかと彼は心配したのだろう。

 翌朝は米長名人、クレスト社の社長の打田氏、行方四段、そして私の4人でタクシーに乗り、倉敷から岡山に出て新幹線で帰るという事になった。

 岡山へ向かうタクシーの中でふと米長名人、思いついたように、よし、国分寺へ寄ろうといい出した。急に国分寺の五重の塔が見たいといい出すのである。

 ここは岡山と倉敷の北方にあたる吉備路で桃太郎伝説で有名な吉備津神社があるのは知っていたが、五重の塔で有名な備中国分寺という寺があるのは知らなかった。

 着いてみると寺域全体が松林に包まれて人影も見当たらぬ静寂の地である。五重の塔もその深い松林に囲まれてその威容を紺碧の空に向け、堂々とそびえさせていた。聖武天皇の発願によって作られたものだが、南北朝時代に消失し、これは江戸中期に建て直されたもの、しかし、米長名人は五重の塔にはあまり見向きもせず、ナメちゃん、こっち、ナメちゃん、こっち、と行方四段を手招きしながら子供のように裏手の方へ走っていく。一体、何だろうと私達は桃太郎を追いかける犬、猿、キジのように米長名人のあとを追って見た。五重の塔の後面一体は風土記の丘の中心地なのだろう。綺麗なレンゲ畑が連なっている。そして、レンゲ畑を少し踏み分け入った時、私達はあーと思わず声が出た。視界が開けるとそこは一面の菜の花畑であった。彼が見たかったのは五重の塔ではなくここの菜の花畑であったのだ。どうだい、とばかり私達に向かって胸をはる米長名人のうしろには春の深まりの中を黄色の布地を敷きつめたような菜の花畑が霞むように連なっていた。

 

 酔いどれ短歌一首 

 ―春深く、菜の花畑に立ちたれば 傷つきし人も美しく見ゆ―

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団鬼六さんの、17頁におよぶ観戦記の中から、行方尚史四段(当時)に関連するところだけを抜き出してみた。

ストーカーになったような気分だ・・・

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団鬼六さんが、いかに行方尚史四段を可愛がっていたかが、よく分かる。

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今から19年前、四段になったばかりの行方尚史四段と、羽生善治四冠。

今、その二人が王位戦で戦っている。

団鬼六さんが生きていたら、涙を流さんばかりに喜んでいただろうな、現地で観戦記も書いていただろうな、いろいろと思う。