一手指すごとに対局者が何かしゃべっていた時代

将棋世界2001年6月号、河口俊彦七段(当時)の「新・対局日誌」より。

 特別対局室では、田中(寅)九段対森内八段戦。これは王座戦の本戦だ。田中九段は和服であらわれた。茶系の紬で、着物は着たことがないのでわからないが、きっと高価な物なのだろう。いや値段なんて考えちゃあいけない。和服で対局する、その心意気を感じ取らなければならぬ。

 田中九段の将棋は、かならず序盤に趣向を凝らす。まるで、義務と思っているかのようだ。この日も、序盤早々に普通はありえない手が指された。

 11図は、先手が▲6八玉と上がったところをチャンスと見て、後手が△5五歩と突いたところ。特にどうということのない局面で、並の棋士なら、▲5五同歩と取り、△同角か△同飛、いずれでも▲7八玉と寄ってから、後のことを考える。田中将棋は、そういった平凡をもっとも嫌う。局面がすこしでも動いた瞬間、技をかける。

11図以下の指し手
▲5七銀△5六歩▲同銀△5四銀▲5五歩△同銀▲同銀△同飛▲7八玉△5一飛▲2四歩△同歩▲同角△2三歩▲6八角△7三桂▲2五銀(12図)

 ガツンと▲5七銀と上がる。こう指せば、△5六歩の取り込みから△5四銀と来るに決まっていて、5六の銀が怪しくなる。

 繰り返すようだが、6八玉の形でこう指す人はいないだろう。

 ここで昼休み。再開後しばらく考え、▲5五歩と打った。

 ▲4六歩と退路を作るなどは田中の辞書にない。

 ▲5五歩を打つとき「損をしまいとして損しちゃうんだな」とか田中九段が呟いた。私はたまたまこの場面を見ていたので正確ではないが、そんな意味だった。

 森内八段も、もしかしたらと覚悟していたろうが、実際に指されたときは、エッ!?という顔で苦笑した。

 昔はこういう場面が多かった。大山名人は無口な方だったが、それでもかなりおしゃべりだった。最近、大山対山田道美戦を調べているのだが、名人戦の観戦記を読むと、ほとんど一手指すごとに何かしゃべっている。ひどいときは、投了前に感想戦を始め、大山名人が敗着を指摘していたりする。

 それを観戦記者はボーツキ(盤側にいつづけること)で見ていて、克明に記録している。指さずに見ているのは、対局以上に大変だと思うが、なにかしゃべってくれればおもしろかろう。そうして、常に第三者がいると、おかしなことも起こる。

 大山名人は盤外作戦の名人でもあったが、観戦記者もうまく利用した。山田の手番になると、観戦者と世間話をはじめる。山田九段は耳ざわりでならない。我慢できなくなり、二日目の夕食休みのとき、自室で観戦記者の茶氏に「大山さんがしゃべりだしたら席を外してくれ」と頼む。茶さんも困ったろうが、昔の記者は根性があって「観戦記者は観るのが仕事だから」とつっぱねる。この二人は因縁があって、第2局の茶さんの観戦記を見た山田九段は「私が粗野に描かれている」と怒り「観戦記を断る」と朝日に申し入れた。朝日も引き下がらず山田九段と茶氏が話し合って、いちおうの合意が成り、再び第5局で観戦記を担当することになったのである。

 そういった間柄の二人が、勝負所で密談したところが、将棋界の話らしい。みんな、それぞれのところで勝負していたのだ。今は、順位戦の最終戦の降級が決まるような場面になると、対局室に入るのを尻込みするような人もいる。

 横道にそれたが、一歩損して銀交換の結果はどうだったか。

「2筋の歩を交換しておけば、後手に手がないと思った」が田中説。一方、森内八段は、はっきり言わないが、指せると思っていただろう。ただ▲2五銀と打ってからは、田中ペースの戦いになった。

(以下略)

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たしかに、観戦記者との世間話は、かなりの盤外作戦になりそうだ。

もちろん、立会人との雑談という手筋もある。

それにしても、相手の投了前に相手の敗着を指摘する大山康晴十五世名人は凄い。

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観戦記者の茶氏は、朝日新聞記者の本田静哉さん。

「アルプス越えて買物に―ヨーロッパ31カ国ドライブ旅行 」、「スペイン―観光と歴史の旅 」、「オーナードライバー」、「名探偵入門」などの著書がある。

山田道美八段(当時)が問題とした茶氏の観戦記は1965年の第24期名人戦第2局のもの。

山田八段は、近代将棋1965年8月号の「名人戦を終わって―敗軍の将、兵を語る」で思いを語っているが、第2局の観戦記についての批判は収まっていない。

この二つの作品は、後藤元気さんの『将棋観戦記コレクション』に収録されている。

茶氏の観戦記は、対局光景が活き活きと描かれており、とても面白い。故・山田道美九段にもこのような面があったのかと、山田九段の今まで知らなかった魅力に触れることができた、という気持ちにもなった。

ところが、山田道美八段は、「ボクがひどく粗野に書かれていて、まるで大山名人をおどしたりすかしたりしながら戦っている印象を受ける」、「同じセリフでもできるだけどぎつく書こうとするふしが見られる。(中略)海が汚かったら、汚いと書くのも結構だが、沼やドブのごとく描かれては困るのだ」と書いている。

なかなか難しく、そして悩ましい問題。